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山口素堂の研究 : 芭蕉との交流を中心に

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Abstract

筑波大学博士 (学術) 学位論文・平成17年3月25日授与 (甲第3585号)  山口素堂(一六四二~一七一六)は漢詩文・和歌・俳諧・茶道などに深い造詣があり、芭蕉と親交の篤かった人物として知られる。従来における素堂研究は大きく二つに分かれてなされてきた。一つは、伝記や資料紹介を中心とする研究であり、もう一つは、出典や思想研究を含む漢詩・和歌・俳諧などの作品研究である - 作品研究と言っても、その多くは、芭蕉を軸に据えたうえで素堂を検討しようとしたものが中心である。このうち、前者の方が後者よりは多く研究されている。しかし、今日、素堂の全作品を扱った注釈書や全集が刊行されていないことを考えれば、素堂研究は未だ諸に就いたばかりと言えるであろう。 本論文は、素堂と芭蕉との交流の中で誕生した作品を中心にしながら、素堂の文学活動の全体像を示すとともに、従来から知られる素堂の文学作品に対しても新しい解釈を呈示しようとするものである。 まず、第一章「山口素堂の生涯と文学活動 - 俳諧を中心に」では、資料に基づき、素堂の伝記を俳諧活動(同時代の評価を含む)に注目しながら検討した。特に伝記研究については、今日、素堂の略年譜として最も優れていると評価されている萩野清氏の「素堂略年譜」(「山口素堂の研究」『芭蕉論考』養徳社 一九四九年)の各項目を、筆者が版本・写本・翻刻本によって一々確認した上で、それに必要な修正を加えつつ、萩野氏の論考の後に学界に報告された素堂関係の資料、筆者が見出した新しい素堂関係の資料を追加して整理した。加えて、萩野氏があまり力を入れなかった典拠・根拠の明記や素堂が一座した連衆の呈示、同時代の素堂の俳諧作品についての芭蕉・蕪村などの高い評価の指摘、などを行った。 続く第二章以下は、素堂の作品研究である。第二章・第三章では俳文、第四章では序文・跋文(文章)、第五章・第六章では漢詩文を取り上げて検討した。 第二章「『蓑虫説』論」では、芭蕉と「蓑虫」をめぐる交流の中で成立した素堂作の俳文「蓑虫説」(貞享四年(一六八七))について、(一)「蓑虫説」における「蓑虫」の意味を、和歌・連歌・俳諧(「蓑虫説」以前)などの先行文芸における「蓑虫」と比べていかなる新しさや特徴があるか、(二)「蓑虫説」における「蓑虫」の新しさや特徴が後代へいかなる影響を与えたのか、という観点から論じた。まず、「蓑虫」が和歌・連歌・俳諧(「蓑虫説」以前)において多く詠まれていなかった詩材であることを確かめながら、和歌における「蓑虫」の詠まれ方 - 「鳴く」「ぶら下がる」「雨が降っても平然と居る」虫など - が連歌・俳諧(「蓑虫説」以前)に受け継がれてゆくことを明確にした。その上で、「蓑虫説」における「蓑虫」の意味が、和歌・連歌などの先行文芸における「蓑虫」の意味を受容しつつも、「親孝行をする虫」「『無能』『無才』の『荘子』思想を体現する虫」などのような、新しい「蓑虫」の意味を作り出していることを明らかにした。次いで、「蓑虫説」成立時期から中興俳諧期の蕪村までの俳諧作品を検討の対象にして(主として芭蕉の直門人たち・蕪村)、素堂・芭蕉の追善集において両人とも「蓑虫」に見立てられ詠まれていること、「蓑虫説」を踏まえた発句・俳文が見えること、芭蕉の直門人たちの俳諧作品に「蓑虫」が聊か多く詠まれるようになるのに「蓑虫説」が貢献していること、などを追究し、「蓑虫説」の後代への影響を確かめた。 第三章「『芭蕉庵三ヶ月日記』論」では、素堂から芭蕉への勧めによって成立した芭蕉・素堂編『芭蕉庵三ヶ月日記』(元禄五年(一六九二))所収の芭蕉作の俳文「芭蕉を移す詞」を、『芭蕉庵三ヶ月日記』全巻に記されている、素堂を軸にした「座」の交流から見直したときに新たに提出できる読みについて考察した。まず「芭蕉を移す詞」以外の、一巻に記されている異色を帯た題や発句群の句意の検討を通して、これらの発句群の多くが、新芭蕉庵やその周囲の景物を詠んだものであることを明らかにした。その上で、「芭蕉を移す詞」に芭蕉庵再建と関わる感謝の文言が見えること、などに徴して、この俳文が月見と芭蕉庵再建祝いとを兼ねて訪ねてきた諸家が新芭蕉庵に句を寄せてくれたことに対する感謝の気持ちを込めたものであることを呈示した。次に「芭蕉を移す詞」に続けて配されている濁子の「ばせを葉の窓をさゝせぬ月夜哉」の句 - 本来は芭蕉の「芭蕉葉を柱にかけん庵の月」の句(「移芭蕉詞」(『蕉翁文集』所収))が配されていた - について、一巻に見える芭蕉の清書態度、つまり、前に配されている俳文とそれに続けて置かれている発句と内容的な関連性があった場合、題を省くという芭蕉の姿勢や、濁子の句が芭蕉の句より「芭蕉を移す詞」の趣旨である「無能」「無才」をよりよく反映していることを明確にして、一句は、元々、俳文と一対の意識のもとで配されたものではないかとの可能性を提出した。続いて、「芭蕉を移す詞」の核心内容が、第二章で見た素堂の「蓑虫説」の核心内容と幾つか共通点があること、文体の面で当時の芭蕉の俳文としては珍しくふんだんに漢詩文体を駆使していること、などの点に徴して、漢詩文に長けており、この交流を提唱してくれた親友素堂の「蓑虫説」の構成・内容を反芻した上で、それに対応する意識で作ったものではないかとの可能性を呈示した。 第四章「序文・跋文論」では、素堂が諸書に寄せた序文・跋文のうちの芭蕉の生前のもの一二点を取り上げて、その特徴を押えるとともに、濁子本『甲子吟行画巻』(芭蕉作『野ざらし紀行』諸本のうちの一本)素堂跋文に対する芭蕉改作ではないかとの疑義説について検討を加えた。まず、文体・用語などの特徴については、漢文作品を作っていること、様々な漢籍を踏まえていること、詩論・歌論・能楽論などの内容や用語を多く下敷きにしていること、歌学や和歌の下敷きが他人の作品と比較して聊か多いこと、などを確かめた。次いで、序文・跋文の内容的な特徴については、作品や編者へ挨拶を込めたものがあれば、作品を与える事情や経緯について述べたものがあり、また、作品内容を評釈するものもあれば、俳書の内容を紹介するものや俳書題を縁にしてそこから文章を仕上げたものなどがあることを確認し、その上で、芭蕉やその門人たちへ寄せたものが内容的に具体性をもつことを論じた。なお、素堂の俳諧論は、当時、読まれていた詩論・歌論・能楽論・俳論と相通じるところがあり、素堂はそれらの知識を十文に知った上で、自分の詩観としていたことを導き出した。その後、従来、芭蕉改作ではないかとの疑問が出されている『甲子吟行画巻』跋文は、素堂の他の序文・跋文の特色やそれ以外の素堂作品との共通点や類似性、芭蕉の諸紀行文・諸俳文との記し方の相違点、などに徴したとき、素堂作である可能性が高いことを論じた。 第五章「漢詩文論I - 『言語遊戯性』に注目して」では、従来ほとんど研究されなかった素堂の全漢詩文五九点を対象にして、そこに見える「言語遊戯性」について考察を加えた。まず、素堂の漢詩文の種類・テーマ・韻学の遵守・詩的センスなどの検討を通して、彼が優れた漢詩人であることを明らかにした。その上で、素堂にはそうした漢詩文の力量があったにもかかわらず、意図的に、漢詩では最も肝心というべき押韻字を全て同字に仕立てるか、また、第一句の四・五・六文字を第二句の四・五・六文字と同音に案じるか、などのような、一般的な漢詩では見られない「言語遊戯性」のある作品を作っていることを論じつつ、それらの作品群が、芭蕉を中心とする人々との交流の中で生み出された作品であることを指摘した。次いで、これらの作品群を、当時の儒者たちの漢詩文や漢籍を含めた出版物における漢詩文と比較したとき、仮名草子・咄本における狂詩との共通性が見られ、素堂がそこから創作のヒントを得た可能性を示した。その上で、素堂が俳諧師で詩歌に貫道するものがあると強調していたこと(其角編『続虚栗』(貞享四年(一六八七))素堂序)などの点を考え合わせ、素堂が俳諧と狂詩・狂文という文芸ジャンルに共通する「言語遊戯性」という点に着目してそうした作品を作ったのではないかと論じた。 第六章「漢詩論II - 『隠逸性』に注目して」では、素堂の漢詩文に最も多く見られる題材である「隠逸」について、典拠を明らかにすることで、彼の隠逸精神を支えていたのは具体的に何だったのかということについて検討した。そしてまず、老荘思想及び神仙思想を自分の隠逸理念として歌っていること、『楚辞』所収の『離騒』『遠遊』『漁父』や『文選』巻第二一「遊仙」などのようないわゆる「求仙文学」「遊仙文学」の流れを汲んで歌っていること、陶淵明・白楽天などの漢詩人の「隠逸」と関連する詩(陶淵明「田園詩」を含む)を踏まえてその精神に倣おうとしていること、隠者・文人趣味と結びつけられる事柄である「旅」「月」「茶」「棋」を嗜んでいること、「隠逸」と関わる儒学の哲学も詩に包括的に取り込んでいること、などを確かめた。加えて、複合的な「隠逸」の典拠をもつ詩、俗世間に対する白眼視を詠んだ詩、己の身の孤高性を詠んだ詩、などがあることを指摘した。 以上の検討を通して、これまで芭蕉の周辺人物としてしか扱われてこなかった素堂が、芭蕉だけでなく、儒者・歌人・茶人・俳人などと幅広い交流をしていた人物であり、当時、名声が高かったことは勿論のこと、幾つかの発句作品は、芭蕉を含めた多くの俳人たちに手本として紹介されるほど優れていること、芭蕉・芭蕉直門人の弟子達・蕪村などの文学者たちに文学的に影響を与えた存在であることを指摘し、それを明らかにすることが出来た。また、雅文学である漢詩文に対しても柔軟に対応して作品を作った文人であり、老荘思想や神仙思想に親しみ、隠者・文人趣味である「旅」「月」「茶」「棋(いご)」を楽しみながら、田園を謳歌したり、俗世間を白眼視したり、財物に拘らなかったりする江戸初期の典型的な文人の一人であったことも明確にすることが出来たのである。 山口素堂の研究 : 芭蕉との交流を中心に ~ 黄,東遠

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