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日本語の人称表現 (Personal expressions in Japanese)

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Abstract

日本語には欧米語のいわゆる人称代名詞に対応する表現がないといわれることがある.これには普通2つの理由があげられる.一つは,欧米語のような文法的な一致がない日本語に人称代名詞という一致にもとづいて定義される文法範疇は必要無いということである.今一つは,西欧語の人称代名詞は文法的な範疇であるため閉じた語彙類をなすが,日本語では,人称を表す語は多くあり,閉じられた語彙類をなさない.このこと,それらの語が単なる名詞であり,代名詞という文法的な機能範疇ではないことを示す. しかし,人称代名詞という文法範疇が存在しないことと,もっぱら人称を表す語が存在しないこととは独立している。日本語では,対話において話し手自身を表す「私、僕、おいら、うち、等」、聞き手を表す「あなた、君、おまえ、等」という名詞類が存在する。それ以外に,本来は人称に関係する語ではないが、対話の場面で場合によって、話し手自身、聞き手を指せる語彙が多くある。「お父さん、お母さん、おばあちゃん」のような親族名称を表す語や「先生」のような語は、全ての人称を表すことができるし、「教授、師匠、親分、だんな」のような上下関係を表す語や「社長、課長、大尉、店長」等の職階を表す語は、三人称を表すと同時に二人称を表すこともできる.これらの定記述は,しかし,話し手自身や聞き手を表す,「僕,私」,「君,あなた」のような語類は,本来,定記述とした名詞類とは,かなり違った振る舞いをする. これらの本来人称を表す名詞類と他の類のものとがどのように異なるか、また、本来、人称詞でないもののなかで、話し手自身や聞き手を指せるものと指せないものの違いはなにかを考察する.
1
日本語の人称表現
田窪行則
1.はじめに
日本語には、西欧語の人称代名詞のような人称を表すのに専従する品
詞は存在しない.日本語にももっぱら話し手自身を表す単語「私、僕、
おいら、うち、等」聞き手を表す単語「あなた、君、おまえ、等」
1、2人称を表す名詞類は存在する。しかし、これらは閉じた類では
なく、人称による一致が存在しない日本語では、文法的に代名詞とし
て別にたてる理由はない。また、これらのうち聞き手を表す語類は非
常に使用に制限があり、基本的に目上の相手には使うことができない。
自分より目上の相手を指す語類としては「お父さん、お母さん、おば
あちゃん」のような親族名称を表す語や「先生」、「教授、師匠、親
分、だんな」のような上下関係を表す語、あるいは「社長、課長、大
尉、店長」等の職階を表す語を用いる。これらは語類としては単なる
定名詞にすぎない。
「きみ」、「あなた」のような 2 人称専従の名詞類になぜこのよう
な制約があるのか、また、本来定名詞である語類がどのような仕組み
で話し手、聞き手を表せるのかに関しては、これまで社会言語学的な
考察しかなかった。本稿では、このような社会言語学的な研究を前提
として、これらの語類の持つ社会言語学的な性質がどのような構造条
件からでてくるかをみる。これらの特徴を保証する形式的な談話、対
話の構造条件をさぐることで、指示、指標、人称現象の普遍的なモデル
を追求したものである。
2
2.人称と呼びかけ
2.1 人称名詞と定記述
「私、おれ、おいら」の類、「あなた、君、おまえ」の類は、話し
手自身、聞き手を直接指すのを本務とする表現であるため、話し手に
よって指すものが変わる。(1)では、「私」は、甲の発話では、話
し手である甲を指し、乙の発話では乙を指す。したがって、これらは
異なる命題をあらわしている。
(1)甲:私も馬鹿でした。
乙:そうです。私も馬鹿でした。
「あなた」の場合も同様で、(2)の場合、「あなた」は、甲の発話
では乙を、乙の発話では甲を表している。
(2)甲:あなたが間違っている。
乙:いや、あなたが間違っている。
これらの表現は、それぞれ、話し手自身、聞き手を固定的に指してい
るということができる。このように、話し手がどちらになるかという
立場の違いを反映するという性質を三上(1972)に従い、境遇性があ
るということにする。この意味でこれらの語類は境遇性を持つ。注1
したがって、これらの語類が人称をもっぱら表す語類であるというこ
とはいえるわけである。しかし、これらの語類を人称代名詞とするこ
とはできない。人称代名詞という範疇は基本的に性数格の一致のある
言語において、その一致特性のみを担う範疇である。したがって、名
詞と区別された統語範疇としての代名詞は閉じた語類で、原則的に語
彙的出入りはない。これに対して、「あなた、わたし」等、日本語の
人称をあらわす語類は、必要があれば外来語からでも流入できる。
えば、ユー、ミーを話し手、聞き手を指すために使うこともできる。
これらは開かれた語類であり、他の名詞類と区別する文法的理由はな
3
い。そこでこれらの語類を人称名詞と呼ぶことにする。さらに鈴木
1985)に従い、話し手が話し手自身を直接指すときに使う語を自称
詞、話し手が聞き手を直接に指す語を対称詞、話し手、聞き手以外の
第三者を表す表現は、他称詞と呼ぶことにする。
人称名詞には、「おまえ、おれ」「君、僕」「わたし、あなた」
「おたく、うち」などがある。これら人称名詞の特徴は、自称詞、対
称詞で対をなすことである。「おまえ」に対する「おれ」、「君」に
対する「僕」は、聞き手と話し手とのある特定の人間関係と結びつい
て選択されているといえる。人称名詞の選択はその人間関係を規定す
るともいえる。例えば、交際の結果人間関係が変われば、対称詞だけ
でなく、自称詞も変える必要が生じる。「君、僕」で互いに呼びあっ
ていた友人のうち一人が「おまえ、おれ」と呼びだした場合、もう一
方も「おまえ、おれ」に移行する必要がある。そうでなければ安定し
た人間関係とはいえない。「君、わし」、「おまえ、僕」の組み合わ
せは、普通は不安定である。したがって、特定の話し手と聞き手との
人間関係に限れば、相互に人称名詞を使う関係ではこれらの人称名詞
は基本的には1対しかないと考えてよい。つまり、人称名詞の組み合
わせは、特定の安定した人間関係を前提にしており、人間関係を固定
してしまうともいえる。もちろん、一方が女性であったりすると、関
係の変化に関わらず、「あなた、わたし」を使いつづける場合もある
であろうし、教師と学生など非対称的な人間関係では、一方が呼び方
を変えたとしても、もう一方が変えない場合がありうる。
また、このような境遇性を持つ人称名詞のうち対称詞は使用に制限
があり、基本的に同輩同士、あるいは、上位者から下位者にしか使え
ない。
これに対し、「お父さん」、「課長」のような名詞が話し手や聞き
手を表すやり方は、人称名詞とは異なっている。(3)では、「お父
さん」は、「父親」の発話では、話し手である「父親」を指しており、
自称詞的に使われている。一方、それに続く乙の発話では、同じ表現
が、聞き手である「父親」を指し、対称詞的に使われているといえる。
4
(3)父親:次郎、お父さんが間違っていたよ。
息子:そうだ。お父さんが間違ってたんだ。
ところが、(1、2)と違い、父の発話と息子の発話は、結局、どち
らも「お父さんが間違っていた」と述べているわけで、「お父さん」
は発話者によって指すものが変わっているわけではない。したがって、
「お父さん」には境遇性がないといえる。
さらに(4)では、「課長」は、部下1が話し手の場合も、部下2
が話し手の場合も場合も、聞き手である別の人物を指している。また、
この二人の言明は、課長が聞き手である場合もそうでない場合も同じ
内容を指す。この場合も境遇性はないわけである。
(4)部下1:課長は間違っています。
部下2:そうだ、課長は間違っています。
つまり、「私、あなた」のような人称名詞は境遇性を持ち、「話し手
自身を指す」、「聞き手を指す」という人称性により使用の規則が決
まるが、「お父さん」の類や「課長」の類は、単にその談話領域にお
いて「お父さん」、「課長」である特定の人物を指しているだけであ
る。そして、たまたま、その「お父さん」であり、「課長」である人
物が話し手や聞き手になるとき、人称詞として使われるだけなのであ
り、特定の人称に固定された表現ではない。これらの名詞は定記述で
あり、その談話領域におけるこれらの人物をその記述により同定して
いるにすぎない。
同様の現象が、固有名詞にも生じる。(5)の「田中さん」は、聞
き手を指すことができる。この場合も、この言明は田中さんが聞き手
でもそうでない場合でも同じ内容を指す。
(5)それは、田中さんが間違っているよ。
5
人称名詞と定記述、固有名詞による人称の表し方の違いは、その指示
の仕方にある。定記述、固有名詞の場合は、その談話領域ですでに値
がわりあてられており(つまり、誰を指すかがきまっている)、話し
手、聞き手という対話の役割がそれに加わるだけである。これに対し
て人称名詞は、基本的に直示的な語であり、対話の役割だけが指定さ
れている指標辞である。これはいわば語用論的変数のようなもので、
話し手、聞き手という対話場面の役割により、その値(誰をさすか)
が割り当てられる。したがって、この意味で、人称詞と呼べるのは人
称名詞だけで、固有名詞や定記述による人称の表現は、辞書的意味と
いう点では、話し手自身や聞き手を表すものではないといえる。
両者のこのような値の決め方は、その振る舞いの差をもたらす。例
えば、「君」は、指さしなどの行為とともに「君は君と行ってくれ」
のように異なる相手に対して使うことができるが、「田中君」は、「田
中」という名前を持つ相手二人に対し、「田中君は田中君と行ってく
れ」のようにいうのは、不自然である。
注2 固有名詞や固有名詞のか
わりに使われる定記述は、指示が成功するためにはその談話領域で互
いに区別されていることが必要とされているからである。この事実は、
人称名詞が直示行為により指示対象を決めているのに対し、固有名詞
や定記述が、記述により指示対象を決めていることを示している。
次に、複数形の意味解釈について見てみよう。対称の人称名詞のみ
が意味的に複数形を持つ。固有名詞や定記述に「たち」をつけたもの
は、対称詞としては機能しない。この場合の「たち」の解釈は、それ
がついた固有名詞の指示対象を代表とするグループを表し、その定記
述や固有名詞の複数を表すものではない。
(6) 田中さんたち、昨日はどこにいった。
(7) お母さんたち、どこにいった。
したがって、「固有名詞+たち」は、相手に直接話しかける文体では
6
対称詞として機能しにくい。注3
(8)?田中さんたちはどう思う。(田中君たち=聞き手)
(9)?この本を田中君たちにあげるよ。(田中君たち=聞き手)
(10)* 田中君たちを逮捕する。(田中君たち=聞き手)
cf. 田中君、君たちを逮捕するよ。
複数の固有名を文内対称詞にするには対象を数え上げる必要がある。
(11)田中と山田はどう思う。
あるいは、「みなさん」のような、最初からグループを指す名詞を対
称詞として使用する必要がある。
(12)みなさんはどう思いますか。
これに対し、対称の人称名詞は「たち」をつけることで複数性を表す
ことができる。この場合の「君たち」は、特定の聞き手である「君」
に代表されるグループではなく、複数の聞き手を表すことも可能であ
る。
(13)君たちはどう思う。
(14)君たちを逮捕する。
(15)この本を君たちにあげよう。
この違いは対称の人称名詞と固有名詞・定記述の値の与えかたと関係
していると思われる。つまり、固有名詞・定記述は、すでに特定の値
をあたえられており、その複数形はその値の複数形ではありえない。
同じ人間は一人しかいないからである。これに対し、対称の人称名詞
は聞き手を表すという指定しかない。したがって、「君」「たち」
7
の解釈は、「「聞き手」+「複数」」であり、「聞き手」に値を入れ
ずに複数の解釈をすることが可能であり、グループ解釈以外に、複数
の聞き手という解釈も自然に得られる。自称の人称名詞が複数解釈を
得られないことも同様に説明できる。自称詞は、発話すること自体に
より、話し手の値が決まるのであるから、「「僕」+「たち」」の解
釈でいかように複数を解釈したとしても、話し手が複数いる解釈は不
可能であるからである。
ここで、人称名詞と固有名詞・定記述との違いをまとめておこう。
(16) 人称名詞と固有名詞・定記述との違い
・人称名詞:
a)名詞に語彙的に話し手、聞き手という役割が与えられている。
値(指示対象)が、発話によって与えられる。
b)境遇性を持つ。
c)対称詞は、目上の人には使えない。
・固有名詞・定記述:
a)名前により、記述により値(=指示対象)が割り当てられて
いる。話し手、聞き手という役割がそれに付け加わる。
b)境遇性を持たない。
c)目上の人にも使える。
(b、c)の性質は、(a)から出てくる。人称名詞の境遇性は、
「話し手、聞き手という役割が先に決まり、それから指示対象を役割
によって決める」という性質からでてくる。次に、(c)の「親しく
ない人、目上の人には使えない」という性質は、聞き手という役割を
話し手が発話によって直接聞き手に与えるという人称名詞の直示性
から来ていると思われる。つまり、敬意のための直示性の忌避が関わ
っていると考えられる。
また、人称名詞は敬意の欠如といった制約以外に、多くの使用制約
8
があるが、それらもこの「人称名詞の直示性」と関係していると思わ
れる。先に述べたように、人称名詞は話し手と聞き手の人間関係を前
提として初めて成り立つ。人間関係を話し手、聞き手の二者関係の中
に凝縮して示すわけである。話し手はこの二者関係の内容を人称名詞
の選択により決定することになる。この選択の決定権に関わる制限が
人称名詞にはついてまわるのである。親しくない相手を「君」、「あ
なた」、「おまえ」などという人称名詞で指示することに対する制約
は、このようなところからでてくる。注4
これに対し、固有名詞・定記述は、すでに指示対象が決まっている
わけで、たまたま聞き手となった場合に、聞き手というあらたな属性
がその対象に加わるだけである。したがって、境遇性は生じない。ま
た、命名は、話し手が行っているのではなく、すでに社会的に決まっ
た(と話し手が考える)名前、記述を採用しているだけであり、直示
の忌避による制限もかからないため、親しくない人、目上の人にも使
える。
人称名詞と固有名詞・定記述の違いは基本的には上の記述で尽きて
いるが、さらに答えなければならない点が生じる。
(17)
a)本来自称詞、対称詞でない定記述、固有名詞が、どのように
して自称詞、対称詞となれるのか。自称詞となるメカニズム
と対称詞となるメカニズムは同じか。
b)基本的に、固有名詞は全てが対称詞となることができるが、
人を表す定記述の全てが対称詞用法を持っているわけでは
ない。どのような定記述が対称詞になれるのか。
c)(b)の固有名詞と定記述との差はどこから生じるのか。
これらの点を以下の節でみていこう。
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2.2 固有名詞・定記述の文内人称詞用法
これまで、固有名詞・定記述が本来の他称詞(=三人称)としてで
はなく、自称詞、対称詞として使えるとしてきたが、これはもちろん
文内部の要素、つまり、文内自称詞、文内対称詞として使われる例の
ことであり、呼びかけ語としての用法は含まない。先に述べたように、
固有名詞もここで問題としている定記述も「名前」として使われてい
るわけで、呼称である。これらの語が呼びかけに使えるのは当然であ
る。英語でも、例えば、固有名詞は当然呼びかけ語に使われるし、愛
称、職業名などの定記述も呼びかけに用いられる。
18) a. You owe me money, Blacksmith.
b. What are you gonna do, Boss?
c. I will give this to you, Mr.Tanaka.
しかし、英語などでは、少なくとも成人相手の言語では、固有名詞や
愛称、相手の職業などを呼びかけ位置以外で聞き手を指すために使う
ことは普通できない。したがって、(19)を(18)と同じ意味に使うこ
とは不可能である。(19a,b)は、一致規則に反するため、文法的にも
非文である。
19) a.* Blacksmith owe me money.
b. *What are Boss gonna do, Boss?
c. I will give this to Mr. Tanaka.
次に、固有名詞・定記述の自称詞用法を見てみよう。普通、成人の英
語では固有名詞を自称詞的に使うことはできない。
20) ??John will go. (John =話し手)
定記述の自称詞用法も、「筆者は」という意味で使う the present
10
author な非常に限られた範囲でしか許されない。しかし、これは
日本語でも同じで、 成人相手の言語では固有名詞・定記述の自称詞
としての使用は基本的に許容されない。後で述べるように「先生にも
ちょうだい」や、「じろちゃんも行く」といった定記述・固有名詞の
自称詞用法は本質的にこどもの文体、あるいは、こどもを対象とした
文体である。これらをのぞけば、日本語においても定記述の自称詞用
法は「筆者」などの限られた語に関してできるだけである。注5
日本語と英語の大きな違いは、日本語で、成人の場合でも固有名詞
や定記述を文内対称詞にも使えることである。(21a,b)は、どちら
も可能であり、文脈によっては冗長さを含んでいる(b)の方が自然
な場合も多い。
(21)a.田中さん、あなたはどちらにします.
b.田中さん、田中さんはどちらにします。
なぜ固有名詞・定記述が聞き手を指すことができるのであろうか。
ここでは、日本語では固有名詞・定記述の呼びかけ機能と対称詞の用
法が相関していることを示し、固有名詞の対称詞としての用法は、
びかけあるいはそれに類する行為による聞き手の認定の結果である
ことを提案する。次に、この呼びかけは、注意を引くための呼びかけ
行為ではなく、談話において固有名詞・定記述を聞き手を指すものと
して認定するための操作であることを示す。さらに、定記述の対称詞
用法は、定記述を通称、呼称にするための「呼称化操作」とでもいえ
る操作が関わっていることを示す。すなわち、定記述の対称詞用法は、
固有名詞の対称詞用法に帰すことを示す。
2.3 固有名詞・定記述と呼びかけ
前節で、日本語では呼びかけに使われる語が文内対称詞としても使え
ることを見た。呼びかけ語と文内の対称詞の分布は相関しており、
の条件のいずれか一つを満たしていなければならない。
11
(22)
(あ)同じ形式である。
(い)呼びかけ語は、職階等をタイトルとして含んだもので、文内
の対称詞が職階を残して名前を省略したものである。
(う)対称詞が適切な人称名詞である。
(あ)と(い)は、基本的には同じことを述べたものと解釈できる。
{田中課長、課長}は、後者が前者の省略形であるという意味で同じ
形式のバリエーションと考えられる。さらに、ここで適切な人称名詞
も同じ形式のバリエーションと考えることにする。これに対して、
{田中課長、田中さん}は、場合によって同じ人間をさせるかもしれ
ないが、同じ形式ではない。対話の同一セッションでは、呼びかけに
よって活性化された固有名詞・定記述の文内対称詞用法は基本的には
呼びかけと同じ形式にのみ適用される。例えば、(23-26)は適切な
呼びかけと文内対称詞の組み合わせである。
(23)田中課長、田中課長はこの案件に賛成ですか。
(24)課長、課長はこの案件に賛成ですか。
(25)田中課長、課長はこの案件に賛成ですか。
(26)田中君、君はこの案件に賛成かね。
これに対して、(27ー30)は、呼びかけと文内対称詞がどちらも聞き
手を指す解釈では、不適切な組み合わせとなる。注6
(27)課長、田中課長はこの案件に賛成ですか。
(28)田中課長、課長さんはこの件に賛成ですか。
(29)君、田中課長はこの案件に賛成かね。
(30)田中課長、田中さんはこの案件に賛成ですか。
12
(22)(あーう)は、実は、文内の名詞間に関わる同一指示(coreference)
の制約と同じものである。次の文では、同一指示が許されるのは、一
番構造的に高い位置にある名詞句が一番情報量が多い場合である。
の場合は、同一指示が成り立たない。
(31)田中課長は課長の家にみんなを招待した。(田中課長=課長)
(32)課長は田中課長の家にみんなを招待した。(田中課長≠課長)
この制約は束縛条件Dと呼ばれており、指示的名詞句間の同一指示に
関する制約を支配している。概略次のように述べることができる。
束縛条件D:指示的名詞は、より指示性の少ない名詞を先行詞として
はいけない。
この条件は、人称に関わらず成立する。また、上の関係は同一文内だ
けでなく、提題の掛かりの及ぶ範囲すべてに成り立つ。(31(32
の関係は(33)と(34)の関係と同じである。いわゆる題目のピリオ
ド越えと呼ばれる現象と同じである。題目をより情報量の多い名詞句
で表し、それと同一指示の名詞句は、それより情報量の多くない名詞
句で表すのである。
(33) 田中課長は最近元気がない。課長の奥さんに原因があるのかも
しれない。
(田中課長=課長 は可能)
(34) 課長は最近元気がない。田中課長の奥さんに原因があるのかも
しれない。
(課長≠田中課長)
13
呼びかけと文内対称詞の関係もこの同一指示に関する制約の拡張で
あると考えよう。違いは、先行詞が題目よりもさらに高い位置にある
こと、次に、呼びかけという性質上、先行詞に聞き手という対話の役
割が割り当てられることである。注8、9
この上位の名詞句による下位の名詞句の束縛は、いわゆる束縛理論
の束縛ではなく、特定の談話領域内での同一指示項の宣言として解釈
することができる。いわば、どの特定の談話領域ごとにどのような名
前をどの対象に対して使うかをリストしたものである。これを対話セ
ッションに拡張したのが、ここでいう呼びかけである。
さて、ある談話において話し手は発語行為が存在すれば一義的に決
まる。特定の発語場面における当該の発語行為の行為者が話し手であ
る。ある発語行為の行為者が、自分自身を直接指示する語が自称詞で
ある。これに対し、対称詞は、対話場面であることが前提とされ、対
話相手を発語行為者が認定し、それをその相手に認識させる作業が必
要になる。これにはさまざまな方法があるが、複数の可能な対話相手
がいるときに特定の相手を取り出す場合、呼びかけが使われる。もち
ろん、この呼びかけが発語行為として存在しない場合でも、認定作業
は発語にともなって存在する。この作業は発語の文脈中の{発語行為
者(=話し手)、その対話相手(=聞き手)}という対話の役割に、
対話場面の人物を割り当てるという作業をふくむ。この役割割り当て
は、その特定の対話セッションにのみ有効である。つまり、聞き手を
指すという行為は、呼びかけあるいはそれに類する行為により話し手
が聞き手を決定して初めて可能になる。後で詳しく述べるが、ここで
いう「呼びかけ」は、あくまで話し手が聞き手を認定し、どのように
呼ぶかを宣言する行為であり、対話セッション初頭に対応する位置を
持つ。この意味で、応答を求めるための注意喚起の呼びかけ行為とは
区別される(注6も参照)
自称詞が直示的に話し手を指すのと同じように、対称詞も直示的に
聞き手を指し示す語とすることができる。「君、おまえ」のような人
称名詞はこのような直示的な指示をするものである。これら二人称名
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詞は、話し手による聞き手認定行為により直接的、同時的に指示対象
が与えられる((注8)も参照)。これに対して、固有名詞・定記述
は、それ自身では対称詞にはならない。呼びかけ(あるいはそれに類
する行為、以下この注釈を省略する)により、話し手がセッション初
頭に認定して始めて対称詞になるのである。この意味で、固有名詞・
定記述の対称詞用法は、呼びかけにより活性化されるものと考えられ
る。この活性化は、話し手が聞き手を認定し、聞き手とのインターフ
ェイスを接続している間続く。
例えば、談話領域にいる対象として{川田、田中、山田}という3
人を考えよう。川田が話しをするとする。つまり、川田=自分である。
(35) [談話領域 自分=川田(a)、田中(b)、山田(c)]
ある特定の対話セッションで話し手である川田は、田中を聞き手とす
るとする。対話セッションのうち田中を聞き手と認定する活性化がU
の間続くとする。
(36) [U 聞き手認定 a=僕、田中君=b=聞き手]
ここで、発語行為にともなって聞き手の認定が行われるが、その宣言
呼びかけである。この宣言によりこの発語行為に関わる文の領域の定
名詞句のうち、「田中君」に「聞き手」という役割が付される。
(37) [文領域 僕(a)の本を田中君(b)にあげるよ]]
(38) 認定宣言による束縛
聞き手認定領域
a=自分、b=聞き手
文領域
僕(a)の本を田中君(=b=聞き手)にあげるよ
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特定の発語行為中に上のような活性化の領域形成がなされ、これによ
り、「田中君」の対称詞としての性質が保証されると考える。つまり、
田中君が文内対称詞となるのは、この聞き手認定が行われた対話セッ
ションの中の呼びかけにより活性化された領域の中だけである。
(39)
談話領域 自分=川田(a)、田中(b)、山田(c)
聞き手認定領域
a=自分、b=聞き手
文領域
(a)の本を田中君(=b=聞き手)にあげるよ
ここでいう呼びかけは、値の決まった特定の定名詞を聞き手を指すの
に使用する旨の宣言である。この宣言は、呼びかけにより、通称・名
前を呼称として採用することである。この時、呼びかけによる活性化
が成立するためには、ある固有名詞・定記述がその談話領域でその人
物の通称・名前として成立していなければならない。したがって、固
有名詞・定記述の対称詞用法の可能性は、これらが呼称として使用可
能であることと相関していることがいえる。そこで、次の節では、呼
称の作り方の制約を見てみることにする。
2.4 呼称の作り方
「妹よ」とか、「ああ我がふるさとよ」、などを呼びかけ表現の一
部と考えてもよいかもしれない。しかし、「妹」、「我がふるさと」
のような表現は、「ああ」とか「よ」などの、感動詞や呼びかけの接
辞なしでは、呼びかけとして機能しない。これに対し「お姉さん」、
「先生」、「田中さん」、「良子」などは、なにもつけなくとも呼び
16
かけ語として機能する。では、呼びかけ語として機能する語とそうで
ない語とはどのような違いがあるのであろうか。
まず親族名称を見よう。親族呼称は、鈴木(1973)が明らかに
したように、次の制約を持つ。
(40)a.一番下から見た親族名称を呼称に使う。
b.話し手から見て自分より同等、あるいは目下になる関係の用語
(親族名称であれば、息子、従兄弟、弟、妹、甥、姪など)は、
呼びかけ語としては機能しない。
鈴木はこの記述の説明を与えていないが、(a)の理由は簡単で、一
番下から名前をつけないと家族全員に名前が与えられないからであ
る。(b)は、おそらく、日本語における呼称の性質によっている。
呼称は、日本語では敬称で、自分より同等あるいは目下の親族名称に
は敬称が付けられないからである。つまり、「お兄さん」「兄さん」
はいいが、「お弟さん」、「弟さん」は呼称にならない。「息子」や
「弟」などの自分より下の親族名称を呼びかけに使うには「息子よ」
「弟よ」などといった呼びかけの助詞を使わなければならない。この
場合、呼びかけができても文内対称詞としては使えない。
(41)*息子よ、これを息子にやろう。(息子=聞き手)
これはおそらく「息子よ」、「弟よ」は、これで活性化領域が閉じて
しまい、先に述べた領域形成をする主題語としての「呼びかけ語」に
ならないからであろう。
これに対して、固有名詞は敬称をつけても、つけなくても呼びかけ
語として使え、文内対称詞となることができる。
(42)a.次郎、これ次郎にやろう。
b.次郎ちゃん、これ次郎ちゃんにやろう。
17
固有名詞は、そもそも名前である。名前はそれ自体で呼称になるので
あり、敬称をつける必要はない。呼び捨てで呼びかけができ、文内対
称詞を保証する。この事実から、定記述における「おーさん、ちゃん」
「さん」、「ちゃん」などは、定記述を敬称をつけることで、固有名
詞に近い役割、つまり、「名前」化、あるいは「呼称」化をしている
とみなすことが可能である。この場合、固有名詞についた「さん、さ
ま、ちゃん」などは、呼称化に関わる接辞ではないことになる。
次に職階を表す語について見てみよう。職階の場合は、さまざまな
要因がからまるために判断がかなり微妙であるが、原則的には、家族
名と同じ制限が働いていると考えられる。固有名詞に職階をつけると
タイトルとなり、全体として固有名詞として機能する。そこで下位の
ものが上位のものを呼びかける場合、まったく、呼びかけ語として機
能し、同時に固有名詞を省いたタイトル自体も、束縛条件Dに従う限
りで、文内対称詞として機能する。固有名詞を省いた場合も同じであ
る。
(43)田中課長、課長にお話があります。
(44)課長、課長にお話があります。
これに対し、上位のものが下位のもの呼びかける場合の「田中課長」
は、呼びかけ語としては可能に見えるが、固有名詞を省いた「課長」
は、呼びかけの用法が不自然で、文内対称詞としての用法もない。ま
た、「田中課長」のように固有名詞を省かない形も、文内対称詞とし
ては少し不自然である。
(45)田中課長、君はどう思う。
(46)*田中課長、課長はどう思う。
(47)?課長、課長はどう思う。
(48)?田中課長、田中課長はどう思う。
18
これはなぜだろうか。この上位者から下位者を呼んだ場合の「課長」
は、職階の呼称作成の規則からはやはり逸脱していると考えられる。
職場では、家族と違いそれぞれがある地位についている。したがって、
一見、家族のように全員に呼び名をつけるために一番下に基準視点を
とる必要はないように思われる。しかし、やはり、職階においても、
一義的に呼び名をつけるためには、下から上につけなければならない。
職階は原則的に階層的にできているため、下から上につければ対象を
一義的に特定化できる。その係り、その課の内部では、長は、一人し
かいないからである。さらに、このようにしてつけられた長の名前は、
下から見ているため敬称として作用し、呼称となる。これに対して、
上位者から下位者を呼んだ場合の「課長」は敬称ではなく、呼称化操
作が機能していないと考えられるのである。つまり、職階も敬称とし
て機能しなければ、呼びかけが文内対称詞を認可しないのである。
さて、では(45の呼びかけはどうなるのであろう。この場合、「田
中課長」は、固有名詞として機能し、「課長」は「君」のような接辞
として解釈される。したがって、(45)が可能なら(48)も(49)と
ように認容されるはずである。これが不自然になるのはなぜであろう。
(49)田中君、田中君はどう思う。
先に述べたように、注意を引くための呼びかけ行為と、呼びかけ語に
よる文内対称詞の認可とは、多少異なると考えなければならない。
手の注意を引くための呼びかけ行為は、どのような形でも相手が同定
できればよく、「おい」という感動詞でも、「よ」という呼びかけ助
詞でも構わない。この種の呼びかけ行為は、応答があれば閉じる。つ
まり、上位から下位に対しての「田中課長」は、その場での同定とし
て働くだけで、呼称、通名としては機能しないのである。そのため、
活性化領域を設定せず、応答により閉じる性質の呼びかけとしてしか
働かないと考えられる。また、この「課長」は、敬称でないため呼称
19
とはならず、呼びかけ行為自体が成立しない。
同様に、卑称は、通称、呼称としては機能せず、したがって、対称
詞としては使えない。自分より上位の親族名でも「父、母、兄、姉」
などが対称詞として使えないのは、敬称がついていないため、卑称と
なり、呼称として機能しないからであると考えられる。
定記述のうちどれがどのようにすれば呼称となり、文内対称詞とし
て使えるようになるかはあまりよくわかっていない。例えば、「魚屋
さん」は、魚屋を呼び止める場合には使えるが、その魚屋を呼ぶため
の文内対称詞としては、それほど安定したものではないような感じが
する。屋号でよぶか、「あなた」を使うか、親しければ名前を呼ぶと
いうことになるであろう。それに対して、タクシー内で使われる「運
転手さん」、「お客さん」は、呼称として安定しており、客がタクシ
ー運転手を「田中さん」といった名前で呼ぶというのは筆者にはかな
り抵抗がある。これは、魚屋と客の関係の方が運転手と客の関係より
多少とも恒常的な関係であることから来ると思われるが、よくわから
ない。このような定記述の呼称化、その文内対称詞用法との関係に関
しての詳しい社会言語学的調査は寡聞にして知らない。
2.5 こどもを相手にしたスタイルでの固有名詞、定記述の自称詞的用
先に成人の言語では原則として、固有名詞、定記述は自称詞として
の用法はもたないと述べた。こどもを相手にしたスタイルでは、これ
らを自称詞として使える。この場合の使用原則について考えてみよう。
まず、こどもを相手にしたスタイルで、職階を表す語が普通自称詞と
して使われないのに対し、親族名称が自称詞としても使われるのはな
ぜなのであろうか。ここで、先に述べた成人の言語における固有名詞
の自称詞用法に対して、自称詞として使われる親族名称は呼称の形で
あることに注意したい。
20
(50)*田中君、課長(=話し手)にそれをください。
(51)a.道男、おかあさん(=話し手)にそれをちょうだい。
b.?道男、母(=話し手)にそれをちょうだい。
ここには2つの要因が絡んでいる。一つは、これら定記述の名付けの
システムの違いであり、今一つは、視点採用の問題である。
これら親族名称の使われる文脈を考えてみよう。対称詞としての用
法では、家族は自分以外の成員を先の末子からみた名付けにより呼ん
でかまわなかった。例えば、母親が、自分のことを「お母さん、ママ」
と呼んで良いのは、相手にとって自分が母親である場合だけである。
したがって、配偶者に向かって、自分のことを「ママ」と呼ぶことは
できない。一人称で使われる「ママ、お母さん」は、いわば、「おま
えのママ」=「聞き手であるおまえの母親である私」という意味で使
われていると考えられる。自称詞としての用法は、末っ子を基準とし
てなづけた一家の通称ではなく、対話相手の視点を採用して名付けた
名称なのである。対称詞として使えるかどうかは、呼称の問題であっ
たが、こどもを相手に定記述を自称詞として使えるかいなかは、対話
相手との個人的関係による。
これに対し、職階の名称が自称詞に使えないのは、次の2つの理由
による。まず、家族名称は基本的には、「~の母」、「~の父」とい
うような関係的な概念である。例えば、この「~」の部分を省略する
「私の母」「私の父」というような最も無標の値である「話し手」
が与えられる。この「話し手」が主題となり、pro の値を決める。
(52)[話し手 i proi「[母]]....]
そこで、こどもに対して「パパ」、「ママ」が自称詞になるのは、こ
の「~」の部分に「お前の」という値を文脈でいれたものと解すこと
ができる。この場合の明示されない主題は、「聞き手」である。
21
(53)[聞き手i[[proi[ママ]].....]
これに対し、「係長、課長」といった語は、職階の階層につけられた
名前で、そこでみられる関係は、庶務課の課長、営業部の部長、とい
った、部、課の中で決定できるものであり、関係的な概念ではない。
そこで、その領域の中では、部長、課長は、特定の人間の通称として
機能する。対称詞、他称詞として使えるためには、名前として使えさ
えすればよい。こどもに、先生や母親が「先生」、「お母さん」で自
分を指せるのは、相手に対して((あなたの)お母さん)、((あな
たの)先生」という関係があるからである。これに対し、職階はこの
意味での関係名詞ではない。「あれは誰の先生」とはいえるが「あれ
は誰の課長」ということは、特殊な文脈を与えない限りできないので
ある。次に、もっと重要なことは、この相手の視点をとって表現する
ということは、一種、保護者的な関係があって初めて可能であるとい
うことである。相手の視点をとるということは、その分、相手の領域
に踏み込んでいっていることになるからである。そのため、社長、部
長の代わりに「親分、師匠」といった関係的な名詞の場合でも、大人
の関係である限り、自称詞のかわりに使うことはできないのである 。
(54)??そいつを親分にくれ。 (親分=話し手)
(55)??師匠がやってやるから心配するな。(師匠=話し手)
さて、幼いこどもなどに向かって、「僕、名前なんて言うの」「私
は幾つ」などのように、これらを対称詞的に使う場合がある。ここで
も、相手であるこどもの視点を採用するスタイルが対称詞の用法を支
配している。「僕、君」といった人称名詞は境遇性を持ち、話し手を
視点の中心においた名付けである。相手が話し手になれば当然、相手
からみた名付けを行うわけだが、この名付けは、こちらのしたものと
は逆になる。したがって、相手が「君」とか「おまえ」というとき、
22
それが自分のことであると理解するためには、相手の視点からみた呼
び方を取り入れている必要がある。つまり、「相手から見たおまえ=
私からみた私」という視点の切り替え操作が必要となる。これは、結
構複雑な操作で、こどもには難しい。そこで、この視点の切り替えを
要らないようなシステムに変えるとする。相手も自分も同じ表現で、
相手や自分を指せるようにしたいわけである。この時に、こちらの視
点を抑えて、相手の視点のみを使って名付けをすると、相手には、こ
の視点の切り替え作業が必要なくなる。これは、母親が自分のことを
こどもに、「お母さん、ママ」で呼ぶのと同じ操作である。母親であ
れば、相手は名前で呼べばいいのだが、名前をしらないか、名前を呼
んでいい関係にない場合、相手の視点をとりいれて、相手を呼ぶと自
称詞を使うしかない。この場合の相手を呼ぶのに使われた自称詞は、
本来の人称名詞ではなく聞き手につけられた臨時的呼称でしかない。
こども相手の言語において、母親が、自分のことを「ママ」といっ
た言葉で呼ぶのは何語でも普通に見られることであろう。「おまえの
母親」といった形の「おまえ」の部分を背景においた表現であるから
である。しかし、相手を自称詞で呼ぶのは、かなり特異な方式ではな
いかと思われる。英語でも、幼児などに対して、保護的に話しかける
ときは、(56)のように、PATERNAL WE(保護者的なwe)と呼ばれる
ものを you のかわりに使うし、(57)のように中国語でも ZANMEN は
英語と同じように使える。これらは、「相手と対立した我々」ではな
く、「相手を含む我々」を表す表現である。
56)How are we this morning?
57)zanmen bu ku.(僕たち泣かない=ないちゃだめ)
you や ni(君)のような人称代名詞を使えば、視点切り替えが必要に
なるが、「相手を含む「我々」を使えば、相手から見ても、こちらか
らみても同じように、「我々」となり、視点の切り替えは必要なくな
る。この方式によっても、日本語の「僕」の二人称使用と同じ効果が
23
でることになる。しかし、この場合は、あくまでも話し手を拡張して
聞き手を抱合し、それによって含ませた聞き手を指すという方略を使
っているのであり、聞き手の視点に立つというのとは多少違っている。
日本語では、このようなやり方は、勧誘表現などに見られるが、人称
詞では使われない。
(58)さあ、早くねんねしましょうね。
(59)*さあ、私たちねんねしましょうね。
(60)*今日は、私たちのごきげんはどう。
しかし、どちらも、対立的な視点を避けていることには変わりはない。
人称名詞を使う限りにおいて、相手の立場とこちらの立場を両方存在
させると、相手が「僕」と呼んでいるところをこちらは、「君、おま
え」などと言わなければならない。つまり、お互い、相手の呼び方と
こちらの呼び方を認めて、それが同じものであることを理解していな
いといけないので、幼児のようにこれを理解していないものにはこの
対立的な視点を解消する必要がある。また、病人のように保護される
べき対象では、相手と自分との対立的視点をさけ、共感度の高い抱合
的視点をとることもできる。注10
「我々」のような一人称の複数形は、基本的には、「私」である話
し手の方からの名付けである。これに聞き手をいれることにより、
手と自分とで呼び方をかえるという対立的視点を避けている。つまり、
英語では相手を引き込む形で、対立的視点を避けているわけである。
これに対し、日本語では、自分自身の視点は抑制され、相手の立場に
降りて行くことによって対立的視点を避けていると見ることができ
る。
この自己拡張的な英語、中国語の特徴と、相手配慮的な日本語の特
徴は他のさまざまな分野でも見られる。
24
2.6 臨時的呼称
単に注意を引くための呼びかけ語と談話領域を設定する呼称は区
別されるべきであると述べた。呼びかけ語として使える定記述でも、
名前、通称として機能しなければ文内対称詞としては機能しない。
場、学校、家族は、個人の役割により名前、呼称が固定している。そ
の人のその領域での役割に呼称化操作をかけたものが呼称、通名であ
る。これに対し、特に知り合いでない人をこのような名前でなく臨時
的にその職業や話し手との関係により、名づけを行うことが可能であ
る。「お客さん、運転手さん、おじさん、おばさん」などはこのよう
な語とみることが可能である。これらの臨時的な呼びかけ語は、通称
とはいえないが、臨時的呼称、臨時的名前として機能し、文内対称詞
としての用法を持っている。これに対し、「そこの黄色の帽子の人」
のような単なる定記述は異なる。これも特定の場面において、対象の
同定をすることはでき、臨時的呼びかけ語としては機能する。しかし、
このような特定の人間を同定するためだけに使われる臨時的な呼び
かけ語は、文内対称詞としては使えない。これは、このこのような定
記述は、その対象の「通称」、「名前」とはなっていないからである
と考えられる。
(61)そこの黄色の帽子の人、あんたにこれをあげよう。
(62)*そこの黄色の帽子の人にこれをあげよう。(そこの黄色の帽
子の人=聞き手)
「そこの黄色の帽子の人」を文内対称詞に変えるためには、「黄色帽
子さん」とでも名前を付けなおし、その談話領域における呼称として
臨時的にでも社会的流通を保証しなければならない。つまり、定記述
が文内対称詞となるためには、「呼称化」操作により、定記述を呼称
にする作業が必要なのである。
3.呼びかけと呼応しない人称詞:「自分」
25
次に、一見、自称詞が対称詞になっている別のケースを見てみよう。
次のような俗語的な例では、本来自称詞である「手前、我、おのれ」
が、対称詞として使われている。
(63)手前がやれ。
(64)我はなにしとんのじゃ。
(65)おのれのことはおのれでせい。
これらの例における「手前、我、おのれ」は、本来は、人称名詞的
な自称詞でも対称詞でもなく、再帰的な指示を行う語であると考えら
れる。話し手の領域で解釈される場合は、自称詞として解釈され、聞
き手の領域で解釈される場合には、聞き手になるのである。ここでの
解釈領域は、基本的には、話し手の領域が基準となり、これを命令や
依頼等の視点操作で聞き手の領域に転換すると聞き手の領域で解釈
されると考えられる。
(66)
主張 :ワレ(話し手領域)=話し手
命令・依頼:ワレ(聞き手領域)=聞き手
上のような文体での対称詞の用法は、相手の領域に踏み込んで、相手
のかわりに自分自身を呼んでやったという過程を経ていると想像さ
れる。このように考えることで、上の文のニュアンスが説明できる。
このような名詞は、基本的には人称名詞と同じく値を指定されていな
いが、人称名詞と異なり、人称に関する指定も持っていないと考えら
れる。
この現象は、現代語の「自分」の用法を見ると理解できる。67-69)
の「自分」は、関西地域で一部使われる対称詞としての用法である。
(67)自分が困るぞ。
26
(68)自分が行くのんちゃうんか。
(69) 自分はどうすんのや。
また,(70は,中国地方や軍隊用語としての自称詞の「自分」である。
(70)自分がやります.
このような人称詞としての自分の用法はどのように出てくるのであ
ろうか。まず、「自分」は、それ自身指示対象を持たず、先行詞によ
って指示対象を与えられる。このため、「誰もが」のような計量詞句
をも先行詞としてとることができる。
(71) 誰もが自分の年をごまかしていた。
「自分」は、(72)のように普通、主語を先行詞としてとる再帰代名
詞とされる。
(72) 田中は、山田に自分の妹の写真を見せた。
従属文中の「自分」は、さらに制限があり、視点主(表された事態を
意識している人)とでも言える対象を先行詞とする(久野 1973)。し
たがって、(73)のように死んでしまって意識がない人間を先行詞に
はとれない。
(73)*太郎は自分が死んだとき、一銭ももっていなかった。
さて、(67ー70は、「自分」自体が、主語、主題の位置にあるので、
さらに上の先行詞を要求する。また、同一節内に先行詞をもたないの
で、従属節と同じような視点主制約をもつと考えられる。この場合、
領域としての話し手、聞き手が先行詞の候補になる。つまり、全体と
27
して、話し手に関わることであれば話し手、聞き手に関わることであ
れば聞き手を語用論的に先行詞としてとるわけである。(67-69)の 例
では、相手に関わることであるので、聞き手を表すことになる。(70)
では、話し手に関わることなので話し手を表す。
この考えにより、談話指示的な「自分」の用法が非常に制約されて
いること, 関西方言の「自分」のニュアンスを説明することができ
る。関西方言の「自分」は、どこか、相手の考え、気持ちを忖度して
いるニュアンスがある。
さらに、軍隊用語の「自分」の一種無人称的なニュアンスも説明で
きる。この「自分」は、直示ではなく、話し手の領域において値解釈
をされるだけなので、待遇性を持たない。待遇的な人称名詞のように、
対称詞との対による人間関係を持ち込まず、いわば間接的な自己指示
をすることができるからである。
4. 他称詞が対称詞に使われる場合
俗語のあるスタイルでは、(74-75)のように「彼、彼女」といっ
た他称詞が対称詞として使われる場合がある。
(74)彼女、茶のみにいかへんか。
(75)これ彼のんちゃう。
これは、「彼、彼女」が、人称名詞ではなく、固有名詞に近い名詞、
あるいは定記述であることを考えれば、それほど不思議ではない。
するに名前を知らない相手に話しかける際に、名前、すなわち呼称の
かわりに使っているのである。この場合、「彼」、「彼女」は、「そ
この男の子」、「そこの女の子」のような定記述による臨時的呼びか
け語に呼称化操作がかかったものと見なすことができる。(74 ー 75)に
見られるように「彼」「彼女」は文内対称詞用法を持つからである。
このスタイルの不躾さとかは、呼称の使用制約から出て来ると考えら
れる。つまり、呼称を使って相手を指すための社会的儀礼や手続きを
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省略して、話者が直接相手を名付けし、呼んでいることから来る失礼
さ、あるいは、なれなれしさである。
これに対し、(76)は、多少異なる。
(76)自分、茶飲みにいかへんか。
まず、相手を「自分」と呼べるためには、ある程度、聞き手の領域
は存在していなければならない。「自分」は、固有名詞ではなく、ま
た、それだけで聞き手を指すことのできる人称名詞でもない。先に述
べたように聞き手の領域を認め、視点切り替えにより、聞き手領域の
視点主を間接的に指すのが、対称詞としての「自分」であると考えら
れる。「自分」の対称詞用法は、疑問、命令といった、相手の方に選
択権を委ねるような表現が多く、直接、相手に呼びかけるのではない
からである。この点、直接、相手を指すことのできる「彼、彼女」と
異なる。
(77)そこの彼女ちょっとこっちきてくれへんか。
(78)へい、彼女元気かい。
「彼女、彼」は、基本的には名前の分からない固有名詞のようなもの
であるのに対し、「自分」の方は、指示対象を与えられていない人称
詞であり、聞き手の領域で評価されるとき、聞き手を表すように拡張
されていると考えられるのである。本当の呼びかけ(ここで用いてい
る聞き手認定として使う呼称としてではなく、注意を引くために行う
「呼びかけ」)の場合には、「自分」を使うことができないことがそ
れを示している。
(79)?そこの自分ちょっとこっちきてくれへん。
(80)?へい、自分元気。
5.間接的な人称指示
29
定記述・固有名詞は、直示的に聞き手、話し手を指すのではく、呼
びかけによる活性化で聞き手や話し手という役割を付与されると述
べた。しかし、この役割付与は談話文法的に設定された談話領域によ
り、談話文法的規則により決定されるものである。それに対し、推論
などにより、間接的に話し手や聞き手を指す場合は異なる。先に、家
族を表す語と異なり職階を表す語は、話し手をあらわすことができな
いと述べたが、間接的に指示する場合には、職階を表す語であっても
話し手を指すことができる。
(81)課長の命令には従えよ。
(82)兄貴をもっと大事にしろ。
これらは、「「課長のいうことには従え」、「兄貴は大事にしろ」、
ところで、私は{課長、兄貴}である、したがって、「私に従え」、
「私を大事にしろ」」とでもいったような推論を行っていると考えら
れる。ここでは、「課長」,「兄貴」は値の与えられて定記述である
必要もない。つまり、談話文法的に「課長」、「兄貴」に「聞き手」
という役割を与えているわけではない。
次の例では少し微妙であるが、「こころやさしい課長、すなわちこ
の私」といった推論をすでに取り入れて、指示対象を決定したもので、
呼称化されたものではないと考えられる。
(83)こころやさしい課長がやってあげようか。
次のような、他人を表す「ひと」が、話し手を指す場合もこれに準
じて考えることができる。
(84)ひとのことはほっといてくれ。
(85)ひとの気も知らないで。
30
この「ひと」は、聞き手、あるいは、別の第三者の視点を一時的に
借り、話し手である自分を指す表現である。「ひと」で、自分のこと
が指せるには、この他者の視点が不可欠で、この場合、一種、突き放
してみている感じを与える。つまり他者の自分に対する扱いに異を唱
える場合に、他者の視点を採用し、他者から見た自分、すなわち、他
者の知識中にある自分に関する知識の内容や取り扱いに異議をとな
える表現と見ることができる。したがって、そのような他者の知識を
問題にしない文脈では、話し手を表すことはできない。
(86)*ひとがいくんですか。(ひと=話し手)
(87)*それをひとにください。(ひと=話し手)
この場合も、「ひと」は、値の与えられた定記述である必要はない。
「「他人」のことはほっておいてくれ」という一般的な記述に、たま
たま話者である自分を事例として当てはめて表現しただけである。
6.まとめ
上では、まず、文内において1、2人称を表す名詞表現に人称名詞
の場合と固有名詞・定記述の場合とを区別した。人称名詞は、辞書的
性質において直示的に話し手、聞き手を指すことが決まっており、
話においてその時の話し手、聞き手を指示する。それに対し、固有名
定記述は、すでに指示対象は決まっており、発話の際に話し手が、
話し手、聞き手という役割を付すことで、話し手、聞き手を表す。こ
の区別が両者のさまざまな違いを生み出している。
本来、話し手、聞き手という役割を辞書的意味としてもっていない
固有名詞・定記述が話し手・聞き手を表すことができるのは、発話時
に活性化領域認定があり、話し手、聞き手となる要素とその記述の宣
言が行われ、通称・名前に聞き手役割、話し手役割を付与するからで
ある。特に、聞き手役割の付与は、呼びかけ行為によってなされる。
このため、文法的に呼称となるかどうかが固有名詞・定記述の文内対
31
称詞用法の可能性と相関している。固有名詞は、本来的に呼称である
が、定記述が呼称になるためには、敬称をつけて呼称化操作をしなけ
ればならない。つまり、これらは呼称人称詞とでもよべるものである。
固有名詞・定記述がすでに指示対象を与えられており、話し手、聞
き手という役割のみを発話の際得るのに対し、「自分」は、それ自身
が指示対象を持たず、また、人称名詞のように語彙的性質としても話
し手、聞き手という役割を与えられていない。「自分」は、先行詞に
よってのみ指示対象を与えられる。「自分」は、聞き手、話し手を表
す場合があるが、その場合も、話題領域から指示対象を得る。
以上をまとめると以下のようになる。
人称が決まっている 指示対象が決まっている 呼称化必要
人称名詞 × 適用せず
× ×
×
再帰(代)名詞 × × 適用せず
本論文は、田窪行則編『視点と言語行動』(くろしお出版 1997 年 6
月刊)所載の同名論文の字句を一部修正したものである。本論文の元
になった研究は株式会社エイ・ティ・アール知能情報映像通信研究所
からの九州大学への受託研究の一部でもある。
注1 三上は、境遇性を「話の場面の特性を語彙の使用規則に含む」とい
う、より広い意味で使っている。
注2 ここで不自然というのは非文法的という意味ではない。例えば「田
32
中は田中を見た」という文で、「田中」が別の対象を表す解釈は多少不自
然であるが別に非文法的とはいえない。ここで問題としているのは、「君
と君」における2つの「君」が別の指示対象を持つのがまったく問題とな
らないのに対して、「田中君と田中君」が多少とも不自然になるのは、「田
中君」が指す対象を決める決め方が直示によるのでなく、「田中という名
前を持つ」という固有名詞の性質によるものだということである。
注3 もちろん、「田中さんたち」というグループの代表として、田中さ
んやその他のメンバーに話しかける場合は可能になる。
田中さんたちはどう思っているの。
この場合は、「田中グループはどうおもっているの。と同じ意味である。
注4 「そちらさま」、「おたくさま」は、敬意が表せるが、これは聞き
手を直示することを避け、聞き手のいる場所を指すことで間接的に聞き手
を指示しているからであろう。「おたく」が、直接的な人間関係を避けた
いと考えるいわゆる「おたく」的な人たちに対称詞として使われたのも、
この語の直示性が低いことによると考えられる。
注5 ただ、日本語では、次のような例において成人の使う固有名詞の自
称詞用法が限られた形で存在する。
(20)この件に関しては田中が処理します。
この場合、「私、田中」のように「私」をつけてもよい。これは形式ばっ
た文体に限られ、「僕、田中」、「おれ、田中」等は筆者には少し不自然
に感じられる。この文体は、ある種の客観性を保証をしたい時に使う。特
定の聞き手を相手にして話者が自分自身を指示しているのではなく、ある
種公的な場面で、多数の聞き手を対象にして自分自身を指示している。こ
の用法を固有名詞の自称詞用法としてよいか否かは多少疑問が残る。
語では固有名詞をこのような形で自称詞として使うことは難しいであろう。
注6「課長、例の件ですが、山田君から田中課長に報告するそうです。」
33
のように、呼びかけ語と文内対称詞が離れていればそれほど不自然でなく
なる。この場合は、最初の呼びかけでいったんこの呼びかけセッションが
終わっているとみることができる。つまり、最初の「課長」に対して相手
からのなんらかの応答があり、それでこの呼びかけセッションが閉じたと
考えられる。多少、議論の余地があり、調査が必要であるが、ここでは、
このような注意をひくための呼びかけと、ここでいう聞き手認定の呼びか
けを違うものと考えておく。前者は、それだけでかなり独立した文をなす。
この違いは、英語における2つの呼びかけの位置と相関していると見てよ
いかもしれない。John, would you like that? Would you like that,John?
の2つでは、文頭の呼びかけは、注意喚起のそれで、ある程度独立したも
のであり、文末の呼びかけは、聞き手認定のそれであると見ることができ
る。
注7 次の例は、<タイトル、タイトル付固有名詞>、<固有名詞、二人
称名詞>の語順になっているが、タイトル、二人称名詞が、名詞句の中に
入っており、より指示性の高い先行詞より上位に無いため(=先行詞をC
-統御していない)ので許容されると考えられる。
1.田中課長、課長の奥さまがさきほど田中課長をたずねていらし
ゃいました。
2.道夫さん、あなたのお友達が道夫さんをたずねていらしたわよ。
束縛条件Dという用語は、Lasnik(1989)による。この条件の正確な特徴づ
けと日本語における詳しい適用は Hoji(1990) を参照。
注8 節の中に同じ指示対象を持つ二人称名詞と定記述が共起するとかな
り認容度が落ちる。1は冗長ではあるが、それほど許容度が落ちないのに
対し、2は、束縛条件Dを守っているのにも関わらず、田中君を聞き手と
解釈するのは非常に難しい。
1.a.君は君の実家に帰るの。
b.田中君は田中君の実家に帰るの。
34
2.?田中君は君の実家に帰るの。(田中君=君)
これは、次のように考え得る。2において、「田中君」は、指示対象は決
まっており、呼びかけ位置から聞き手認定により「聞き手」役割をもらう、
「君」は、聞き手の役割は決まっており、指示対象は、直示によりもらう。
この時、「田中君」と「君」は、偶然指示対象が同じであるだけで、指示
のリンクはない。そこで、2は、「田中君」と「君」は、同じ形式と見な
せなくと巻えよう。さて、「君」が指示対象を呼びかけ位置ではなく、「田
中君」からもらうとする。この場合「君」自体は、先行詞によって初めて
指示対象を持つ「自分」やゼロ形式のような形と似た性質を持つことにな
る。3、4のような例は、これが正しいことを示唆している(この例は、
上山(個人談話)による)。これらの例は、「あなた」、「君」を「自分」
のように解釈できるような文脈を作り、その文脈を安定的に作れるように
なってはじめて認容できる解釈がえられる。
3.あのね、田中さんがあなたの書類を忘れなければ、こんなこと
にはならなかったんですよ。(田中さん=あなた)
4.田中君は君のお母さんに面とむかって礼とか言ったことあ
る? (田中君=君)
もし、3、4の例に対する認容性の判断とその説明が正しければ、2
の<田中君、君>の組み合わせの不適格性は、「君」が直示により指示対
象をえていることからきていることの傍証になるであろう。
注9 このように考えると、なぜ、英語で呼称が、you の意味にならないの
かは、束縛条件Dの両言語における違いとして考えることができるかもし
れない。英語では、指示的名詞句はより高い位置の名詞と同一指示であっ
てはいけないからで、(18)のような文でさえ英語では許されない。これ
が果たして構文的な違いであるか否かは多少不明である。こどもに話しか
けるようないわゆる motherese、また、your majesty のような敬語や、
counselor のような法廷の用語では、呼称が対称詞として使える場合がある。
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つまり、英語などでも敬称は、文内対称詞になる可能性があるのかもしれ
ない。しかし、この可能性はこれ以上追求せず、ここでは、同一指示的名
詞句に関する制約が日本語と英語で異なるため、英語では呼称より2人称
代名詞が選択されるとしておく。
注10 従来の融合的視点と呼ばれているものを木村(1992)に従っ
て、抱合的視点と言い替える。これは、話し手の領域に聞き手を取り込む
形で成立する視点であり、あくまでも、話し手の領域の拡張と見られるか
らである。
引用文献
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本語と中国語の対照研究論文集』 pp.181 ー 211、くろしお出版
2.久野すすむ(1973)『日本文法研究』 大修館書店
3.柴谷方良(1978)『日本語の分析』 大修館書店
4.鈴木孝夫(1973) 『ことばと文化』 岩波書店
5.鈴木孝夫(1985)「自称詞と対称詞の比較」、国広哲弥編『日英語比較
講座5ー文化と社会』、pp.17-59、大修館
6.田窪行則・木村英樹(1992)「中国語、日本語、英語における三人称
代名詞の対照研究」大河内康憲編『日本語と中国語の対照研究論文集
上』 pp137-152、くろしお出版
7.田窪行則(1992)「言語行動と視点-人称詞を中心に」『日本語学』 vol
11. pp.20-27 明治書院
8.三 (1972) 『現代語法新説』 くろしお出版
9. Hoji, Hajime(1990) KARE. In: Carol Georgopoulos and Roberta
Ishihara, eds.,
Interdisciplinary Approaches to Language - Essays
in Honor of S.-Y.Kuroda
, pp.287-304, Dordrecht: Kluwer Academic
Publishers.
10.Lasnik,Howard(1989) On the Necessity of Binding Conditions in
36
Essays on Anaphora
Kluwer Academic Publishers, pp.149-167

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