Content uploaded by Jun Kawai
Author content
All content in this area was uploaded by Jun Kawai on Jan 14, 2017
Content may be subject to copyright.
X線分析の進歩 第 43 集(2012)抜刷
Advances in X-Ray Chemical Analysis, Japan, 43 (2012)
アグネ技術センター
ISSN 0911-7806
(公社)日本分析化学会X線分析研究懇談会 ©
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光 X 線分析
河合 潤
Reviews on Forensic Analysis of Wakayama Arsenic Case
– X-Ray Fluorescence Analysis – Submitted to Court
Jun KAWAI
X線分析の進歩 43 49
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
Adv. X-Ray. Chem. Anal., Japan 43, pp.49-87 (2012)
京都大学大学院工学研究科材料工学専攻 京都市左京区吉田本町 〒606-8501
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
河合 潤
Reviews on Forensic Analysis of Wakayama Arsenic Case
– X-Ray Fluorescence Analysis – Submitted to Court
Jun KAWAI
Department of Materials Science and Engineering, Kyoto University,
Sakyo-ku, Kyoto 606-8501, Japan
(Received 14 November 2011, Revised 3 February 2012, Accepted 4 February 2012)
The Wakayama poisoning case was that curry served at summer festival dated on July 25th,
1998, was poisoned by arsenic. The X-ray fluorescence analysis used in the legal advices submitted
to the court was reviewed. Though it was believed that SPring-8 XRF has a large contribution for
the judicial decision, existing general problems are discussed when synchrotron radiation X-ray
fluorescence analysis (SR-XRF) is used for forensic analysis. It has been clarified that the SPring-
8 SR-XRF was not a major contribution, and if the SR-XRF were too much depended on, it is
pointed out that the decision may have been inverted.
[Key words] SR-XRF; Wakayama curry poisoning case; identification; forensic analysis; arsenic
1998年(平成10年)7月25日和歌山市の夏祭りのカレーに亜砒酸が混ぜられていた事件の裁判において,鑑
定に用いられた蛍光X線分析のデータを総合的に批評した.SPring-8が大きな役割を果たしたといわれている
が,放射光蛍光X線分析を裁判の鑑定に用いる問題点を一般的に論じた.実際にはSPring-8 の役割は大きくな
く,もし仮に放射光蛍光X線分析に頼りすぎた場合,判決が覆った可能性があったことを指摘した.
[キーワード]放射光蛍光 X線,和歌山カレー砒素事件,異同識別,鑑識,亜砒酸
総 説
1. はじめに
和歌山カレー事件は,1998年(平成10年)7月
25日の和歌山市の夏祭りで配られたカレーに亜
砒酸が混ぜられていた事件で,4人の死者と60名
以上に後遺症を残す悲惨な事件である.和歌山
「市保健所は集団食中毒とみて病状の確認や原因
食材の特定などを急いでいる.患者の発症が早
いことから和歌山東署も原因調査を始めた.」こ
れは,女子中学生が保健所,警察,病院に先んじ
てカレー事件が砒素中毒であることを新聞報道
やインターネットだけから突き止めたというの
で評判になった文藝春秋のレポート1)に引用さ
れた朝日新聞の記事である.食中毒の次は農薬
中毒の可能性が浮上した.文藝春秋のレポート
に引用された朝日新聞の記事を続けて引用する
50 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
と,誠佑記念病院の
「上野院長が午後十時すぎ,電話で市保健
所と話した時『他の病院では農薬中毒の症
状があった』と聞いたが,基本的には『食中
毒として対応すればいい』との内容だった.
不安を感じながらも,食中毒の治療を続け
るしかなかったという.『症状が激しすぎ,
食中毒にしては変だと思った.でも何が原
因か確証が持てず,言い出すことができな
かった』.上野院長は自戒をこめてそう振り
返る.」(朝日新聞8/24 夕刊)
事件からおよそ1ヵ月後に病院長が自戒して振
り返るように,その後「青酸化合物」が検出さ
れたという誤った分析結果によって再び治療は
振り回された.「ボタンの掛け違い」
1)が犠牲者
を増やした原因であると言うのは当たっている.
シアン検出は裁判記録によると7月26 日午前5
時30分頃である.「7月26日午前3時3分」
1)自
治会長は死亡し,後述の上田氏の証言によると,
自治会長の胃の吸引物及び死亡した小学生のカ
レーの中から砒素が検出されたという連絡が,8
月2日の午後3時35 分ころに,東京の科学警察
研究所から和歌山県警に入った.続いて8月6日
にいわゆる「紙コップ」の付着物に亜砒酸が検
出されて,保険外交員宅のシロアリ駆除剤(亜砒
酸)に含まれる微量元素のパターンとカレー中
のそれとの一致が12月になってSPring-8により
示され,犯人逮捕につながった.SPring-8が供用
開始後,専門家でなくても理解可能なニュース
になる初めての大きな成果として知られる.今
ではすっかり忘れ去られてしまったとはいうも
のの,当時は「SPring-8」という大型放射光施設
が一般社会に知られるきっかけとなった.カ
レー事件以降,全国で農薬などが食品へ混入さ
れる毒物混入模倣犯罪が頻発したことでも社会
的に大きな影響を与えた.私は当時の模倣犯の
新聞報道件数をデータベースで調べたことがあ
る2)
.東京理科大学の中井氏が公判前に証拠を
記者会見で開示したり,犯人が逮捕されたりし
たことによって模倣犯が激減した.蛍光X線分
析が使われたことによって,シンクロトロン放
射光施設と蛍光X線分析の有用性を社会に示す
とともに,全国の警察へ蛍光X線分析装置と X
線回折装置がそれぞれ40台近く,合計約80台が
納入され,全国の救命救急病院でも50台をこえ
る蛍光X線分析装置が導入された2)
.
13年以上が経過し,事件も風化しつつある.今
回たまたま裁判資料を入手することができたので,
上述したように,保険外交員宅のシロアリ駆除剤
(亜砒酸)に含まれる微量元素のパターンとカレー
中のそれとの一致がSPring-8 により示された,と
いうように聞いていたが,どの程度の一致が一致
として認められたのか,実測されたスペクトルは
どういうものであったのか,入手した資料をもと
に,これらについて批判的に解説するのが本稿の
目的である.私自身は本事件の鑑定や裁判には一
切関わっておらず,今回スペクトル生データ,証
人尋問調書などの裁判資料を初めて見た.鑑定や
裁判に関わった研究者はそれぞれ複雑な感情をこ
の鑑定結果に持っているようであり,中立的な立
場から事件を批判的に評価することは困難なよう
である.むしろ思い出したくない,関わりたくな
いというような印象を持っているようにもみえる.
「現場付近にあった亜ヒ酸のついた紙コッ
プと,容疑者宅にあった複数の亜ヒ酸,そし
てカレー中の亜ヒ酸が同一のものかどうか
が鑑定のポイントであった.亜ヒ酸は工業
製品で,その原料産地,採掘時期,製造・精
製方法等によりその微量の不純物組成が変
化するので,捜査資料に含まれる微量の不純
X線分析の進歩 43 51
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
物を分析することにより異同識別が可能であ
る.ところが,筆者らへの依頼は,カレーや
0.1 mg以下の試料からppmレベルの微量の不
純物を分析しなければいけないという困難な
問題であった.そこで,極微量の試料で高感
度分析が可能な放射光を励起源とする蛍光X
線分析を用いた.幸いカレーの中から亜ヒ酸
の結晶を見いだすことができ,これらの亜ヒ
酸に含まれていた不純物の錫,アンチモン,
ビスマスなどの重元素をSPring-8で,モリブ
デンの有無をフォトンファクトリーで調べる
ことにより異同識別が可能であった.」3)
という中井氏の講演で,鑑定の概略を聞いていた.
鑑定資料を詳しく見てみると,保険外交員宅のシ
ロアリ駆除剤(亜砒酸)に含まれる微量元素のパ
ターンとカレー中のそれとの一致が放射光蛍光X
線分析により示された,とは簡単には言い切るこ
とのできない複雑な分析結果が得られていること
がわかった.本稿の結論は,次の3点に要約できる.
(1) 中井氏のSPring-8の100 keVを超える高
エネルギー蛍光X線分析では Bi, Sb, Sn などの砒
素中の同族微量不純物の分析によって異同識別が
できた,と思われているが,実際にはBi, Sb, Sn
などの化学的性質が類似した不純物元素(Sb, Bi
はAsと同族.SnはSb の隣接元素)は,SPring-8
の実験以前に,すでに科学警察研究所の丸茂氏ら
によって,Se とPbも加えた5元素を含む多くの
元素濃度がICP-AESによって分析され,Bi, Sb, Sn,
Se, Pb合計5元素の濃度パターンから異同識別が
なされていた.Biの存在については丸茂氏の測定
結果を中井氏は聞いていたため,原子番号の大き
なBi K線(Kα = 76,Kβ = 87 keV)で確認するた
め,SPring-8 で高エネルギー測定が可能な BL-
08Wを用いることが決まった.これらの不純物元
素とその濃度パターンはSPring-8 で初めて見つ
かったものではなく,ICP-AESの定量分析によっ
て,SPring-8 のスペクトル・パターン以上の詳細
な濃度定量値がすでに得られており,SPring-8は
ICP-AESの不完全な追実験であった.またこれら
の一連のSPring-8での分析は放射光マイクロビー
ムによるものではなく,2 mm × 2 mmの大きなビー
ムサイズによるものである.更にこれら不純物元
素濃度は数十ppmレベルであり,決して微量とは
言わない,分析化学では容易な分析に相当した.
(2) 蛍光X線分析による鑑定で最も重要な役
割を果たした元素はMoである.殺人事件に関連
しない亜砒酸試料にはMoが含まれていなかった
が,犯人につながる重要な証拠には共通してMo
が含まれていた.MoはSPring-8 でも観測された
が,Mo Kα = 17.4,Kβ = 19.6 keVのためSPring-8
の100 keV以上の高エネルギーX線励起では励起
効率が低すぎて信頼できるスペクトルが得られ
なかった.Moの存在は SPring-8に続いて中井氏
が行ったKEK-PFの測定によって確認できた.し
かしKEK-PFでも Mo Kα線だけしか測定できて
おらず,確認のために必要なKβ線は検出できな
かった.シンクロトロン放射光蛍光X線分析で
も,また市販EDX装置でも,主成分のAs のKα
(10.5 keV)のサムピークが21 keV に強く出現す
るため,Mo Kβは確認できない.サムピークの
低エネルギー側のEDXスペクトルに特有なテー
ルのためにMoの分析は不確実性が高い.こうい
う分析では通常はMo Lα(2.3 keV)やWDX に
よっても確認すべきである.再鑑定として2年後
に行われた谷口・早川鑑定では,Mo Lαは
SAE5120型EDX測定,KαはSR-WDX測定によっ
て行われ,Moの存在が初めて確実なものとなっ
た.Mo はICP によっては確認されていない.短
時間で全元素が分析できる点が蛍光X線分析の
優れた点であり,試料量自体が少ない中の超微
52 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
量Moの発見は,放射光蛍光X線分析の大きな成
果であろうが,Moの存在が中井鑑定では判決を
左右できるほど確実とはいえなかった.
(3) 谷口・早川両氏による鑑定は主に弁護側
の要請による分析である.繰り返し再現性,放
射光マイクロビーム(実際のビームサイズはマ
イクロメートルではなかったが)を用いた微小
試料上の場所によるスペクトルの変動幅をあら
かじめ実際の鑑定試料によって調べることに
よって放射光蛍光X線分析のバリデーションを
行った精密な分析である.バックグラウンドの
引き方は,当初はスペクトル上の30点を通る曲
線としていたが(谷口氏による),スペクトルを
拡大すると,弱いピークのバックグラウンドが
正しく引き算できていないことがわかり,後に
は各ピークの前後を直線で結ぶバックグラウン
ドに変更して定量値を算出しなおした(早川氏
による).定量分析値は,蛍光X線のエネルギー
の違いによるプローブ深さと試料厚さを考慮し
た補正,入射X線の散乱ピーク強度による補正,
などを行った非常に精確な分析である.Moにつ
いては,裁判官の要請によってスペクトルを拡
大プロットしなおし,ピークとバックグラウン
ド強度の変動幅によって分析値の信頼性を示す
指標とともに提示した.WDX 測定では Mo Kα1
とKα2が2:1の強度比で観測されており,Mo の
存在という元素定性結果は初めて確実なものと
なった.谷口・早川両氏の鑑定は中井氏の結果
を追認した分析であると一般に見なされている
が,実際にはその精度と正確さは格段にすぐれ
たものである.試料厚さの効果を考慮して,散
乱X線や主成分蛍光X線によって規格化し定量
分析値を算出するなど,高エネルギーシンクロ
トロン放射光蛍光X線分析にこれまでにない新
しい手法を導入したものである.谷口・早川鑑
定によってMoの存在が証明され,有罪判決の重
要な決め手の一つとなったと考えられる.
本稿の結論に至る過程において,中井氏の鑑
定内容に対して厳しい意見を述べた.この意見
は今後のシンクロトロン放射光を用いた分析化
学や裁判での鑑定にとって注意すべき重要な事
項を示唆するものであり,中井氏を誹謗中傷す
る意図はない.中井氏は今回の鑑定に対して科
学者として複雑な感情を持っているであろうこ
とは十分に理解しているつもりである.
X線分析に関係する主な鑑定資料には,
・東京理科大学中井氏によるシンクロトロン放
射光蛍光X線を用いた測定.
・科学警察研究所丸茂氏ら・杉田氏ら・鈴木真一
氏らによるSEM-EDX を用いた測定.
・科学警察研究所瀬戸氏ら・鈴木康弘氏らによ
る波長分散型蛍光X線を用いた測定.
・大阪電気通信大学谷口氏と広島大学早川氏に
よるシンクロトロン放射光を用いた測定(弁
護側の要請によるもの).
・多くのX線回折分析(亜砒酸であることを分
析できた).
・中井氏らが KEK-PF で行った放射光マイクロ
ビーム分析による毛髪中の砒素の1次元測定
(長さ方向の砒素濃度の分析).
・和歌山県警科学捜査研究所野上氏によるSEM-
EDX測定.
・兵庫県警科学捜査研究所二宮氏によるX線透
過像とXRF 測定.
などがある.この中で,X線回折については触れ
ない.使われた分析法は,X線分析以外にイオン
クロマト,ICP-AES,IR など多岐にわたる分析
法が用いられた.裁判に提出された鑑定書を時
系列順に表1に示す.本稿では職権6, 7, 8 号の
証拠を,谷口・早川鑑定(6号),及び早川鑑定
X線分析の進歩 43 53
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
うに請求番号がついており,いずれも公表され
た著作物である.本稿はこれらにもとづいて執
筆した.再審弁護団によると,このような資料
をもとに当解説のような論文を公表・公開する
ことについては法的な問題はないということで
ある.また裁判での証言を速記した正式な証人
尋問調書も要約しないでできるだけそのまま引
用する方がよい,ということなので,重要な部
分はそのまま引用した.しかしながら本解説の
内容は,再審弁護団の考え方とは無関係であり,
むしろ再審弁護団の考え方に反する見解も多い.
蛍光 X線分析としてどのような分析が行われ,
どういう結果を与えたかをまとめ,レビューす
るのが本稿の目的である.また複数の独立な関
係者に確認したところ,入手した裁判資料は真
正の資料であることも確認できた.表1に示すよ
うに膨大な鑑定資料が裁判に提出された.この
表は,証拠番号が各鑑定書ごとに異なるため(最
も重要とされる紙コップについても「資料(1)」,
「資料(7)」などと鑑定書によって名称が異な
る),その対応表を再審弁護団が作成したものの
一部を抜粋したものである.従って次節以降の
各鑑定書で使われている「資料(1)」などは,番
号が同じでも鑑定書によって異なる証拠品を指
し示している場合が多い.試資料の解釈を行う
のが本稿の目的ではなく,X線スペクトルのレ
ビューをするのが本稿の目的であるので,証拠
として重要というよりは,スペクトルとして特
徴あるものを例示したことに注意していただき
たい.SEM-EDX,XRFのような分析における略
称は定義しないで用いたが,本稿の末尾に用語
解説を付した.「砒素」は化学用語としては「ヒ
素」が正式であるが,本稿では裁判の証人尋問
調書で「砒素」「亜砒酸」が使われているので,
おおよそ「砒」に統一した.文献の引用の際に
(7号, 8 号)と呼ぶ.
今回の裁判資料は,再審弁護団から,資料レ
クチャーの依頼があった際に入手したものであ
る.蛍光X線分析に関する部分の証人尋問調書
および鑑定書を入手した.これらは表1に示すよ
表1 裁判に提出された鑑定書.
請求番号 鑑定人 鑑定書日付
検甲第 5号 科捜研(野上靖生ら) H10.9.6
10 科捜研(野上靖生ら) H10.10.15
14 科捜研(野上靖生ら) H10.10.18
19 科捜研(野上靖生ら) H10.10.18
23 科警研(鈴木真一ら) H10.12.22
49 科警研(丸茂義輝ら) H10.12.24
52 科警研(丸茂義輝ら) H10.12.25
63 山内博 H11.3.29
1160 科警研(瀬戸康雄ら) H10.9.30
1163 科警研(杉田律子ら) H10.10.20
1165 科警研(鈴木真一ら) H10.12.3
1168 科警研(丸茂義輝ら) H10.12.15
1170 中井泉 H11.2.19
1193 科警研(瀬戸康雄ら) H10.9.3
1232 中井泉 H11.7.23
1285 科警研(丸茂義輝ら) H11.4.26
1287 中井泉 H12.3.28
1292 中井泉 H12.3.28
1294 中井泉 H12.3.28
1297 科捜研(野上靖生ら) H12.3.3
1300 中井泉 H12.3.28
1303 科警研(丸茂義輝ら) H12.12.25
1310 科警研(鈴木康弘ら) H12.12.25
1444 科捜研(野上靖生ら) H12.7.13
1522 科警研(鈴木真一ら) H12.11.22
1529 科捜研(野上靖生ら) H12.12.18
職権 5号証 二宮利男ら H13.9.26
6 谷口一雄・早川慎二郎 H13.11.5
7 谷口一雄・早川慎二郎(補充)
H13.11.15
8 谷口一雄・早川慎二郎(訂正) H13.11.22
54 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
は元の縦書きの資料の句読点や漢数字などは横
書きで読みやすくするため,コンマ,ピリオド,
アラビア数字などに改めた.
2. 砒素発見までの和歌山県警科学捜
査研究所での分析の経緯
和歌山地方裁判所第24 回公判速記録の上田啓
太氏(和歌山県警科学捜査研究所研究員)の証
人尋問調書によると,和歌山県警科学捜査研究
所は7月26 日午前1時ごろに,吐物を受領し始
めて,その後26日中だけでも466 点の証拠物件
を受領したという.受け取った証拠物件の確認
作業が終わったのは4人で作業して「7月27 日
の午前零時ごろまでかかったと思います」.この
確認作業の詳細はわからないが,チャック付き
ポリ袋に個別に封入し,記録することであった
と思われる.この際には各資料は詳細には観察
されなかったようであるが,466点(後には 707
点)の証拠物件を短時間に4人で調べた.品質管
理では要員の交代に関するSOPまで整備しなけ
ればならないといわれている4)
.過酷な労働条
件の分析であった.今になって振り返ると後知
恵ではあるが,まず目視によって証拠品を詳し
く調べるべきであったことがわかる.「平成10年
7月26日の午前1時ごろに受領した吐物8点につ
いて,まず農薬検査を実施し,その後シアン検
査を行ったところ,そのうちの6点から青酸反応
が認められたため,以後の資料についても検査
を行いました.」「7月26日の午前5時30 分」に
は和歌山東署に報告しているので,青酸反応が
認められたのはそれ以前であった.このとき青
酸反応はチオシアンに反応したものであって,
シアンではなかったことが後に判明する.この
ときのシアン検査は,4名で「7月26日から8月
2日までに限ると,707点についてシアン検査を
行いました」という.このシアン検査は「ピリ
ジン・ピラゾロン法」で「資料を蒸留水とかに
溶解するなどして作った検液について,クロラ
ミンT溶液,そしてピリジン・ピラゾロン液を
加えてその発色を見るというもの」である.「こ
のときシアンが存在すれば,薄いピンク色から
青色に変色」するという.後に重要な証拠とな
るいわゆる「紙コップ」,「青色紙コップ」,「記
号エのコップ」などと呼ばれる紙コップに関し
ては「たくさんの資料をやっていたので,まあ
流れ作業でやってたので,見たと思いますけれ
ども,ほとんど見てなかったに近いと思いま
す」.紙コップに純水を入れて内容物を溶解した
後,その検液を一部採取してピリジン・ピラゾ
ロン法の発色を見たが発色しなかった.分析用
検液採取後の紙コップは「作業台の上で自然乾
燥させ」てチャック付きポリ袋に保管した.「8
月2日の午後3時35 分ごろに,鑑定嘱託してい
た科学警察研究所より,(中略)胃吸引液から砒
素が検出されたと言う連絡が科捜研所長に入り,
以後,科捜研においても,その予備検査を行っ」
た.科学警察研究所は当時東京千代田区にあっ
た研究所である(現在は千葉県柏市).予備検査
では,この紙コップは「平成 10 年8月6日の午
前11時10分ごろに,保管中の紙コップを取り出
して砒素の予備検査を行いました」.8月2日の
科学警察研究所からの連絡直後から砒素検査を
開始し,8月6日までに492点について「グトツァ
イト法」で行った.「グトツァイト法」とは,「資
料を蒸留水等に混ぜるなどして作った検液,こ
れを試験管に取り,ここに亜鉛末と希硫酸を加
え,その試験管を加熱します.この試験管の上
部に,硝酸銀試薬を湿らせたろ紙を近づけ,そ
の発色を見るという方法です.黒色に発色すれ
ば,砒素の存在の疑いがあります.」検査の結果
X線分析の進歩 43 55
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
砒素が検出されたので,「コップの底部に付いて
いる粉末を採取して,X線マイクロアナライ
ザーとフーリエ変換赤外分光光度計による検査
を行いました.」8月6日午後1時30分には,「X
線マイクロアナライザーからは砒素元素,フー
リエ変換赤外分光光度計からは亜砒酸に類似し
た赤外吸収スペクトルが得られました.」結局こ
の紙コップは蒸留水を入れて乾燥させる操作を2
回行ったことになる.それ以外にも指紋検出も
行われた.「コップから亜砒酸が検出されたこと
から,重要な資料であるだろうということで,
(中略)別に保管することとなりました.」
和歌山県警科捜研でのX線マイクロアナライ
ザーによる分析は,明石ABT-55WETSEM 走査
電子顕微鏡にフィリップスEDAX-9800型半導体
検出器をつけたSEM-EDX装置で20 kVの加速電
圧で測定したものである.
3. 東京千代田区科学警察研究所での
砒素分析とXRF およびSEM-EDX
測定
上述したように,8月2日の午後3時35分ごろ
に,東京の科学警察研究所から和歌山の科捜研
に,死亡した自治会長の胃の吸引物などから砒
素を検出したという知らせが入った.自治会長
が入院していたのは和歌山の病院であろうから,
この間,どのような経緯があったのか入手した
裁判資料からはわからない.またこの時の砒素
検出法も不明である.
8月2日の東京での砒素発見の知らせにより,
上述したように和歌山で8月6日午後1時30 分
にX線マイクロアナライザーによって砒素が検
出され,その紙コップは東京へ運ばれた.和歌
山地方裁判所第28 回公判速記録の杉田律子氏
(警察庁科学警察研究所)の証人尋問調書による
と,8月6日の夜に和歌山県警から「紙コップ」
を東京の科学警察研究所で受け取り,X線マイ
クロアナライザー,IR,XRD を行ない,亜砒酸
を検出した.この時のX線マイクロアナライ
ザーによる分析は,請求番号「第1163号」杉田
氏らの鑑定書によると,PGT製EDXが附属した
カメカSX-100 型走査電子顕微鏡(加速電圧 20
kV,試料電流10 nA,測定元素Na∼U)で測定
したものである.この時のスペクトルを図1に示
す.鑑定書には「この鑑定は平成 10 年8月6日
に着手し,平成10 年10 月20日に終了した」と
記載されており紙コップの付着物がSEM-EDX
によって砒素であり,しかもIRとXRDによって
亜砒酸であることを和歌山県警に続いて確認し
た分析である.図1にはX線スペクトルのフル・
図1 紙コップ付着物の
X線マイクロアナライ
ザー(裁判資料1163によ
る).
56 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
スケールが52433 cps と記入されている.半導体
検出器は,全積分強度が1万cps を超えると数え
落としが多くなるので,Asの一つのピークだけで
も5万cpsであることから,X線がやや強すぎたの
ではないかと思われる.試料電流が10 nAなので,
電子ビームは少し強すぎるのではないか,という
気がするが,データが信頼できなくなるほど強す
ぎるということはない.定量値を算出するなら数
え落としの補正をした後で求めるべきだと思われ
るが,この時は特に定量分析は行われていない.
請求番号「第1168 号」丸茂義輝氏らの鑑定書
(平成10年12月15 日)には,科学警察研究所に
おいて丸茂氏らがX線マイクロアナライザーを
用いて様々な試料を測定した結果が示されてい
る.測定に用いたX線マイクロアナライザーは
上述の杉田氏らのものと同じであるが,加速電
圧を20 kV →15 kVへ低減させている点が異な
る.SEM 像観測のためであったと思われる.試
料は鑑定資料粉末の一部をとり,カーボン製試
料台に張り付けた両面テープの上にのせ,炭素
蒸着を行った後,2次電子像観測及びEDX 分析
を行った.SEM-EDXにより鑑定資料から検出さ
れた元素を図2に示す.
「二次電子像の観察から明らかなように,亜ヒ
酸標準品は正八面体である.また鑑定資料(1)
∼(7)の二次電子像を観察すると,正八面体構
造を保持した結晶が観察された」という.2次電
子像観察による微細結晶粒の観察結果から亜砒
酸という化学状態分析が可能ということである.
化学状態分析には,通常IRやXRDが必須である
と多くの人が思い込んでいるが,SEM像で簡易
に化学状態を知ることができるというものであ
り,状態分析手法として大いに参考になる記述
である.亜砒酸標準品のSEM像を図3に示す.上
半分が不明瞭であるものの中央部に正八面体構
造が確認できる.
SEM-EDX スペクトルの代表例を図4に示す.
Ne 以下の軽元素(Ne Kα = 0.85 keV)が分析か
ら除外されているのは,EDXのために,軽元素
のエネルギー範囲の分析の信頼性が低いからで
あろう. EPMAのJIS規格5)によると(このJIS
規格は波長分散方式の定性分析のための規格で
あってSEM-EDXではない点に注意する必要があ
るが試験報告書への記載事項は共通すると考え
てよい),低濃度になって複数のピークによる確
認が困難になるまで,すべてのピークを複数の
ピークにより確認しながら同定し,「同定できな
かったピークは,すべて試験報告書に記載するこ
とが望ましい」(下線河合)とされている.図4で
は観測されたすべてのピークに対して帰属がな
されており,スペクトルの報告書として見習う
べきものがある.ただし,縦軸は,As Lα線によっ
て規格化されているようであるが,規格化の記
図2 SEM-EDX分析によって検出された元素(1168による).図3 亜砒酸標準品の2次電子像(1168 による).
X線分析の進歩 43 57
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
述は見当たらない.縦軸のカウント数や測定時
間に関しての記述が報告書にはない.強度が何
カウントかという記述は,S/N比を示すので,例
えば強度が1000 カウントなら, 1000 の標準偏
差のばらつき,すなわち±30カウントのばらつき
がある.そういう点はこのデータから読み取る
ことができない.Asのsum ピークという帰属の
あるスペクトルと,サムピークの観測されない
スペクトルがあるので,絶対強度は試料ごとに
大きく異なっていたと考えられる.上述したよ
うに1万cpsを超えるとEDXでは数え落としも無
視できなくなるので,測定時間と1秒あたりのカ
ウント数cpsの両者を報告すべきである.縦軸の
数値が取り除かれているが,図1の杉田氏らのよ
うに入れるべきである.後述の図9の瀬戸氏らや
図10の鈴木康弘氏らによるXRFのようにフルス
ケールが違っていてもなんら問題ないので,フ
ルスケールは掲載すべきであると考える.
測定時間は,例えば縦軸をカウント/100秒のよ
うな単位で示すことによって明示すべきである
が,そのような記述がないため,どのくらいの時
間,1つの試料に電子ビームをあて続けたのかが
不明であり,長時間のビーム照射によって元素が
揮発する可能性についての評価ができない.学術
論文では電子ビーム照射時間の記述は当たり前で
あるが,裁判に提出された資料にはこの様な記述
がないことは今回初めて知った.また縦軸はリニ
アプロットであるが,一般には対数プロットまた
は後述の中井鑑定や谷口・早川鑑定のように縦軸
を拡大したリニアプロットと併記することも必要
である.特に元素が観測で
きないことを示すために
は,対数プロットまたは拡
大プロットは必須である.
As Lλ線と帰属されたス
ペクトル線に関しては,Lλ
とはどういう線なのか記述
がなく,またLλ線というス
ペクトル記号は一般には使
われていない.おそらく
PGT のEDX 附属プログラ
ムもしくはカメカの装置で
自動的に帰属した結果であ
ろうが,通常はL 線と表
記されるスペクトル線であ
る.LλとLとは同じ線を
表す場合もあるし,違う線
をあらわす場合もある.
LλはSommerfeld 6)
のスペ
クトル記号で,5s →2p 遷
図4 鑑定資料(1)と(7)のSEM-EDX スペクトル(1168 による).
58 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
移とされており,Lαの高エネルギー側に出現す
るはずである.一方Siegbahn7)
のスペクトル記号
にはL線があり,はlow frequency を意味し,
Cauchoisによれば3s→2p遷移8)
である.ヨーロッ
パでは,L線をLλ線と書くこともあるのでL線
をLλ線と表記しているのであろう.
粉末試料は,カーボン両面テープに載せた上
で,さらに炭素蒸着を行ったようであるが,布の
ような大きな試料でも,また微小粉末試料ならな
おさら,炭素蒸着しなくとも帯電は無視できる.
なぜ炭素蒸着して貴重な鑑定資料を消費したのか
不明である.おそらく,絶縁性試料は必ず炭素蒸
着しなければならないという思い込みが多くの分
析者に広まっているためであろうが,これは間
違った認識である.微量な粉末試料をカーボン
テープに分散させれば,一般には炭素蒸着などの
導電性処理は必要ない.和歌山県警科学捜査研究
所野上氏らの鑑定書(1529)では日本電子製JSM-
5410LV型SEM-EDXを用いて測定したが,Au蒸
着した結果が示されているので,Au とAsの線が
一部重なっている(As Kα = 11.7, Au Lα = 11.4 keV).
LV型は低真空SEMを意味する.低真空では試料
の帯電をかなり防ぐことができる.絶縁試料で
も,カーボンテープに載せるだけで,AuやC蒸
着のような帯電防止処理をしなくても帯電は軽微
であり,2次電子像が白っぽくなることはほとん
どない.さらに低真空モードにすれば,反射電子
像だけしか観測できなくなるが,帯電を回避でき
る.発光X線スペクトルは試料が少なければ帯電
してもほとんど強度は変化しない(面積の大きな
ゴム板のような試料の場合には,帯電によって電
子ビームが試料をそれて散乱されるのでチャン
バーの材質の特性線が出現する場合もあるので注
意は必要である9)
).我田引水になるが,最近,希
釈イオン液体を用いて簡単に帯電防止する方法も
開発された10)
.
杉田氏の証言などによると,科学警察研究所
では,SEM-EDX測定は試料を消費する破壊分析
ととらえられている.
弁護人「付着物の鑑定した際に5ミリグラム
のかき取ったやつについてね,その処
分をお聞きしたいんですが,結局どう
したんですか.」
杉田「使った資料は廃棄しました.」
紙コップからかき取った5 mg の資料は,3つに
分けKBr錠剤としてIR測定,コロジオンで固定
してXRD測定,炭素蒸着してSEM-EDX測定を
行った.測定後の試料は廃棄されているが,絶
縁性試料でも炭素蒸着しないで測定し,測定後
は再鑑定のためにカーボンテープに張り付けた
まま,試料台と共に保存するということも考慮
すべきと思われる.実際にこの試料は SPring-8
などSR-XRF測定にも使えた可能性がある.
いずれにしても杉田氏らや丸茂氏らの鑑定にお
ける発光X線スペクトルは手本とすべき教科書
的なスペクトルである.また和歌山の科学捜査研
究所や東京の科学警察研究所の鑑定はAsを確実
に示したものである.はなやかなSPring-8放射光
蛍光X線分析結果に隠れて,これらの分析は目立
たなかったが,重要な役割を果たした.
SEM-EDXでは,Si, S, Caなどの軽元素が観測
された試料もあれば,観測されなかった試料も
ある.これらの意味は十分に吟味されなかった.
SEM-EDXは軽元素になるとSPring-8によるSR-
XRFよりも高感度である.SEMにSPring-8 の放
射光を導入して同一試料を同一のSDD検出器で
測定して比較すると,Cl やSより軽元素側では
SEM-EDXのほうがSR-XRFより感度が良い.K,
Ca, Tiの感度はSR-XRFとSEM-EDXとで拮抗す
る11)
.図512)は河合らが9 keV のSPring-8 放射
X線分析の進歩 43 59
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
光を黄砂粒子1粒に当ててSR-XRFを測定した例
である.SEM-EDXをSPring-8ビームラインに設
置して測定した.どちらも検出器はSEMに取り
付けた同一のSDDで測定したものである.この
図からわかるように,遷移金属(Fe)ではSR-XRF
のほうが感度が良いが,Ca で両者は同じとな
り,Ca より左の軽元素では,SEM-EDX のほう
がSR-XRF よりはるかに高感度となることがわ
かる. 9 keVのSR-XRFは,3d遷移金属元素以下
の原子番号の軽元素に対して励起効率が高い.
Mg, Al, Si, Kなどの軽元素になると,SEM-EDX
の感度の方が優れているので,励起効率の悪い
100 keVのSR-XRF測定では,信号強度が弱すぎ
て軽元素測定には無力である.このような軽元
素分析ではたとえSPring-8 といえども分析感度
は,感度が悪いと言われるSEM-EDXに比べても
劣る.この点は,SR-XRFの意外な盲点である.
SEM-EDXで検出されたSi, S, Caなどの軽元素が
軽視されたのは,SPring-8で測定された XRF ス
ペクトルが示されたため,SPring-8 より感度が
悪いと信じられていたSEM-EDX を再びじっく
り見ようという意識がなくなったからであろう.
SPring-8 は世界最高の放射光施設であるという
イメージに惑わされた結果である.SPring-8 の
分析感度は決して高くない.
丸茂鑑定の重要な点は,X線スペクトルだけ
ではなく,他の分析法(XRD, IR, ICP-AESなど)
を総合的に組み合わせることによって異同識別
に成功した点にある.特にICP-AESによる分析
では,図6に示すように鑑定資料および中国産な
ど他の起源の亜砒酸と比較した微量5元素の
レーダーチャートの一致及び不一致によって,
犯行に使われた可能性のある亜砒酸の異同識別
に成功した点が重要である.このように,SPring-
8を用いるまでもなく,すでにICP-AESによって
最終鑑定結果と同じ結果が得られていたことは
特筆すべきである.丸茂鑑定が意味するところ
は,ありふれた多数の分析法の組み合わせの方
が,世界最高といわれる1つの分析法に勝ってい
る,という事実である.1つの分析方法に頼りす
ぎるのは問題が大きい.
丸茂鑑定と比較したとき,SPring-8の放射光蛍
光X線分析では,Pb, Seが測定できなかったこと
は大きな問題である.PbはX線の遮蔽に使われ
ているため,あらゆるスペクトルにPbが現れる.
SeはAs の隣接元素のため,As Kβ(11.7 keV)と
Se Kα(11.2 keV)が重なる.従ってICP-AES に
図5 軽元素ではSEM-EDXの方がSR-XRFより高感度
であることを示す例(文献12)から許諾を得て引用).
図6 鑑定資料(1)∼(6)の ICP-AES によって得ら
れた微量不純物元素のレーダーチャート(裁判資料
1168 による).
60 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
よる異同識別では図6のSe, Sn, Sb,
Pb, Biの5元素が活用できたが,SR-
XRFでは,Sn, Sb, Biの3元素だけ
しか異同識別に使えなかった.こ
のために不確かなMo を使わざる
を得なかったということができる.
シンクロトロン・ビームラインは
ステンレスで構成されるので,Fe,
Cr,Niが検出されることがあると
いう点も大きな問題である.
図7にICP-AESによって検出さ
れた全元素の定量分析結果を示
す.図8には重金属の分析結果を
示す.図8の上部に示すように「資
料(1)は試料の量が21.9 mgとき
わめて少ないため,1回の測定の
みを行った」と書かれている.紙
コップから採取された29.1 mg 全
量のうち21.9 mg を用いたのでは
なく29.1 mgのミスプリであろう.
ICP-AES の試料調製に関して,
「前処理として鑑定資料(1)はそ
の全量(29.1 mg)を 0.5 mlの濃硝酸を加え,加
熱溶解し,さらに超純水0.5 mlを加え,5分間加
温攪拌した後,0.5 mlの濃塩酸を加えた.溶液を
濾過し,不溶物を除去した濾液を超純水を用い
て,2.9 mlとし,分析用溶液とした」と書かれて
いる.ICP-AES が2.9 mlもの試料溶液を必要と
し,しかも1回の分析ですべて消費しなければな
らないほどだったというのは本当だろうか.最
近私の研究室で開発した1ワット(懐中電灯程度
のワット数)のX線管を用いるポータブル全反
射蛍光X線分析装置では 1 µlあればSPring-8な
みの高感度分析が軽元素を除く全元素で可能な
ことを示したが,ICPではもっと少ない液量でも
分析可能であるというコメントをよくもらう.
1990年代は ICP でもミリ・リットルの液量が必
要であったのであろうか.
図9に示したのは科学警察研究所の瀬戸康雄
氏他7名による鑑定書(1160)のカレーの蛍光X
線スペクトル測定例である.フィリップス社製
PW1404波長分散型蛍光X線分析装置(Sc管,50
kV, 50 mA, LiF 分光結晶,検出器はシンチレー
ション・カウンターおよび比例係数管)を用い
た測定である.
スペクトルは,空容器の蛍光X線スペクトル
をブランクとして測定した結果と,鑑定試料を
測定した結果が掲載されており,注意して分析
図8 重金属の分析結果(裁判資料1168 による).
図7 鑑定資料の分析結果(裁判資料1168 による).
X線分析の進歩 43 61
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
されていることがわかる.し
かし図9の縦軸を見ればわか
るように,フルスケールが
200 kcpsとなっている点が気
になる.As Kαピークは15万
cps である.比例計数管の場
合,カウントレートが高すぎ
ると,波高分布が低エネル
ギー側へシフトして数え落と
しが増大する13)
.また不感時
間による数え落としも無視で
きない.事実,As のピークが
比較的強いスペクトルでは,
As Kα:Kβの正味(net)高 さ
が2.9:1であるのに対し,比
較的弱いスペクトルでは3.6:
1となっている.高い計数率
による数え落としや飽和がス
ペクトルの強度比を変化させ
ており,定量プログラムにお
いて数え落としの補正を正し
く行っているのか疑問であ
る.標準試料を用いて,図9の
ように1秒あたりのカウント
数が高いスペクトルと,管電
圧は変化させずに管電流だけ
を低減させて1桁,2桁弱いス
ペクトルを測定して,定量結
果が変化しないか普段から確
認しておく必要がある.
その他XRF,SEM-EDX 分
析とも,鑑定書には多数のス
ペクトルが報告されているが
以下では代表例だけを引用する.
裁判資料1185 丸茂氏らの鑑定書:X線マイク
ロアナライザーとして日本電子JSM-5800LV 型
SEM-EDX(15 kV, 10 nA, Na∼U,「カーボン製
図9 カレーの蛍光X線スペクトル(裁判資料1193による).
図10 WD-XRF スペクトル(1310 による).
62 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
試料台に張り付けた両面テープの上にのせ,炭
素蒸着を行った」).
裁判資料1303丸茂氏らの鑑定書:PW1404, 50
kV, 40 mA, LiF,「本測定条件におけるヒ素の検
出下限は約4 µgである.」
図10に鈴木康弘氏らの鑑定書(1310)から引
用した蛍光X線スペクトル例を示す.この鑑定
書のスペクトルもフィリップスPW1404 の
WDXで測定したものである.分光結晶はLiFと
だけしか記述されていないが,Asの2θ値から計
算すると2d = 4 Åの分光結晶なのでLiF(200)で
あることがわかる.2θ = 23°の不連続は上述し
た瀬戸氏のブランク測定でも出てきているので,
どういう原因によるものか不明である.これら
2つのスペクトルを比較すると,Kα:Kβ比は,
全体の強度が弱いスペクトル(フルスケール10
kcps)ではKβの相対強度が弱く,フルスケール
が200 kcpsの強いスペクトルでは,Kαが飽和で
弱くなるためKβの相対強度が強く見える.数え
落としは定量の際,正しく補正されているであ
ろうか?
科学警察研究所および和歌山県警科学捜査研
究所以外のX線分析として兵庫県警科学捜査研
究所二宮利男氏他4名の鑑定書(職権5号証)が
ある.兵庫県立工業技術センターの島津製作所
製SMX-160V Micro Focus X-Ray TV System (100
kV, 100 µA, 取り込み時間2秒)によるカレーの
X線透過像撮影と,その撮影像に黒色斑点とし
て映った79粒子を取り出してセイコーインスツ
ルメンツ製SEA5120 により蛍光X線測定した.
X線透過像は和歌山県立医科大学佐藤守男氏も
二宮氏の前に行っており,二宮氏の鑑定書に再
録されている.二宮氏らによる代表的な蛍光X
線スペクトル例を図11に示す.50 kV,1 mAの
管電圧,管電流.X線管ターゲットは不明.測定
時間10秒,有効時間は7秒であったり9秒であっ
図11 ED-XRFスペクトル(二宮利男 鑑定書による).
X線分析の進歩 43 63
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
たりしており,これらはいわゆるreal timeとlive
time に対応しているのであろう.縦軸も横軸も
目盛りがないのでAs Kα,Kβという表示を信じ
るしかないが,それならスペクトルを表示する
意味はほとんどないようにも思える.蛍光X線
分析で検出できる元素としてはAs以外の不純物
元素がないことを示しているのであろう.dead
timeが10∼30%というのはX線管の出力がやや
強すぎるような気がする.不思議なのはdead
time が大きい方(図11 右)がKβが弱いことで
ある.上述の瀬戸氏や鈴木康弘氏らの結果(図
9,10)とは逆の傾向を示している.
4. 中井鑑定
中井鑑定書は請求番号1170 のもので,表1に
示すように1170以外にも中井氏は数多くの鑑定
書を提出している.基本となるものは1170であ
る.紙コップなどの資料番号は,表1のところで
も触れたように,各鑑定人が独自の番号を振っ
ており,その対応関係は簡単ではない.本稿で
は上述したように各資料の素性は問題にせず,
スペクトルが妥当なものであるのかどうかを議
論する.どれが紙コップかというような点は考
慮しない.
中井鑑定では,SPring-8 とKEK-PFの2つの放
射光を用いて鑑定を行った.その実験条件を要
約する.
SPring-8での測定は1998 年(平成 10 年)12月
11日∼13日,12月18 日∼19 日である.ビーム
ラインはBL-08W ウィグラービームラインで,
115keVの入射光を用いた.X線ビームサイズは
2 mm × 2 mm,1スペクトルの測定時間は2400
秒/試料,すなわち40 分である.裁判資料に書
き込まれた手書きのメモには「通常5分ごとに計
測→和の平均を出す
が」と書き込みがある
が,証人尋問調書速記
録では該当する証言を
発見できなかった.40
分の測定に関して,5
分ごと,合計8回の測
定のばらつきはどの程
度であったのだろう
か?X線検出器は Ge-
SSDであった.
KEK-PF での測定は
1998年12月14日から16
日,ビームラインはBL-
4Aベンディング・マグ
ネットからの放射光を
単色化し,20∼21 keV
のX線を2 mm × 2 mm
図12 代表的な中井鑑定のSPring-8高エネルギーX線励起蛍光X線スペクトル(1170).
64 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
のビームサイズにして検体に照射し,1スペクト
ルあたり2400 秒/試料で測定した.X線検出は
Si(Li)およびGe SSD を用いた.
これ以外に毛髪の長さ方向のAs 強度測定も鑑
定書1232などに報告がある.1232の実験はKEK-
PF,BL-4A,12.2と12.9 keV,X線ビームサイズ
1 mm × 3 mm,毛髪上の1点当たりの測定時間
50秒,ステップ幅1 mm, Si(Li)SSD.中井氏の鑑
定書にはX線回折の報告もあるが本稿では扱わ
ない.
図12に中井鑑定のSPring-8のスペクトルの中
から2例を示す.AsのKα,Kβと入射光115 keV
のコンプトン散乱によるものであろうか,95
keV にブロードなピークがわかる.この鑑定書
にはコンプトン散乱という記述はない.拡大し
たスペクトルでは,Mo, Sn, Sb, Biなどのピーク
が帰属されているが,帰属されていないピーク
も多数存在している.丸茂鑑定のように,観測
されたすべてのスペクトル成分について帰属を
行うのが正当な試験報告書であって,自分に都
合の良い部分だけを選び出してその部分だけを
帰属するというのは分光分析としては問題があ
る.裁判で分光分析の素人を対象にしていると
思っているからであろうか,スペクトル線の帰
属が省略されているのが気になる.分光分析の
国際会議などでは,帰属されていなかったスペ
クトル線を質問されて,間違った回答をしたと
たんにその研究発表の信頼性が失墜するという
ことは良く見かけることである.なおこれら帰
属がなされていないスペクトル線は,一部は証
人尋問で明らかにされている.また谷口・早川
鑑定書において詳しく帰属されており,またそ
の帰属の根拠も明示されている.Moのやや高エ
ネルギー側に強くて非対称な(低エネルギー側
にテーリングした)ピークが多くのスペクトル
で観測されるが,As のサムピークである.低エ
ネルギー側にテールを引いているのは検出器の
応答関数に問題があったのかもしれない.一般
にSSDで測定されたピークの低エネルギー側に
は,図13に示すように様々な要因による成分が
重畳し,強い線の低エネルギー側の弱い線の帰
属は不確実性が大きい14)
.図13はV K線を単色
化した場合に本来はシャープな1本の線が観測
されるはずであるが,低エネルギー側へテーリ
ングする様子を測定したものである.
Papp ら15)によるとSSD 検出器は個性があっ
て,同じスペクトルを測定しても,低エネルギー
側テールはSSD検出器ごとに違ったスペクトル
になるという.その例は文献15)
のFig.2にプロッ
トされている.また時間が経過するとテーリン
グの様子が変化する場合もある.SPring-8 で使
い慣れない検出器を用いるとき,検出器の個性
は大きな問題となる.
図13 V Kα単色スペクトルとVスペクトル全体を測定
比較したもの.単色スペクトルでも低エネルギー側には
エスケープピークやテーリングが生ずることが分かる.
単色していないVから発生するスペクトルを測定する
と,テーリングの様子も複雑になる.文献14)から引用.
X線分析の進歩 43 65
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
中井氏のSPring-8 のスペクトルではサムピー
クが極めて強いことから,入射X線強度が強す
ぎたこともすぐにわかる.SPring-8 を使う必要
はなかったのではないかとさえ思われる.検出
器のデッドタイムがかなり長かったことも考え
られる.元素の相関を調べる場合に,デッドタ
イムの影響は果たしてなかったのかどうかとい
う点は疑問である.30 keV 以下の低エネルギー
領域でバックグラウンドが上昇しているが,こ
の原因は何であろうか?検出器の効率の変化な
のか,サムピークの影響なのか,特に記述はな
い.Bi の低エネルギー側の70∼75 keVの2本の
ピークや,80∼90 keV の2本のピークの帰属に
ついてもスペクトルに帰属が表示されておらず,
不親切である.バックグラウンドが滑らかでは
なく,65 keV 近辺にステップがある原因もわか
らない.生データがエクセル形式で公開されて
いるが0∼106 keV までのデータしか存在しな
い.入射X線エネルギー115 keV を越える測定
データは必須であると思われるが,そういう
データは存在しないのであろうか?もし存在し
ないならばデータとして不十分である.
図12 はAs Kαのピーク高さで規格化してプ
ロットしてあるように見えるが,95 keVのコン
プトン散乱ピークの強度が異なる.Asの2倍の
エネルギーに現れるサムピーク強度の対称性や
半値幅も違うので,a.u.(arbitrary units の略)と
表示があるように任意強度として示したスペク
トル強度は絶対値ではどの程度の違いがあるの
か気になるところである.なぜならピークが1万
cps と100 cps とでは,スペクトル形状が同じだ
からといって,もしもX線が照射されている部
分の試料量が同程度なら,異同識別した際,同じ
ものとは言えないからである.任意単位とする
場合には,数値を入れるべきであるが,強度の目
盛りが入っていないのも気になる.任意単位と
は,数値の単位を任意に
取ってよい,という意味
だからである.鑑定書の
場合には,単位が任意で
よいとは思われない.
115 keVの入射光の弾性
散乱ピークがスペクト
ルのプロットの範囲外
になっているが,As の
ピークで規格化した際
に弾性散乱ピーク強度
は,各測定で同程度の強
度だったのかどうか,と
いう点も気になる.
図14は「同じ資料を測
定箇所を変えて測定し
た」ものである.図14の
図14 同一粒子の場所の違いによる XRFスペクトルの違い(1170).
66 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
中の「図4-(2A)」と「 図 4-(3A)」はカレー内から
発見した粒子「鑑定資料10-1」の異なる場所を
測定したものであるという.1個の試料粒子の異
なる部分に入射光が照射されているために異な
るスペクトルが得られていると解釈されている
(第34回公判証人尋問調書pp.78-79).SPring-8の
供用開始後しばらくの間,ビームは不安定で,突
然強度が強くなったり弱くなったり,ビームラ
インによってはビームの位置が突然に数cmも移
動することもあったので,そういう時間の経過
に伴うビームラインの状態変化を本当に除外で
きて,試料上の位置の違いだけによるスペクト
ルの違いであるということができるのか疑われ
る.同一の試料粒子の繰り返し測定結果がこの
程度異なったという可能性も否定できない.一
般に X線強度や位置が不安定などというネガ
ティブなビームの状態はSPring-8 関係者以外に
は開示されない.理想的な状態のビームを使お
うと SPring-8 へ行って実験し,失望するユー
ザーも少なくない.
KEK-PFの測定結果を図15に示す.PFでは広
いスペクトル範囲を測定したと思われるが,主
に17.4 keVのピーク,Mo Kαのみを示している.
Mo Kαの約1/10の強度のKβ(19.6 keV)はどこ
にあるのだろうか?20 keVまで上昇するX線は
入射光であろうか,そのコンプトン散乱であろ
うか,あるいはAsのサムピークであろうか.測
定されたどのスペクトルにもはっきりしたKβは
観測できない.Moという帰属は間違いないもの
であろうか?1つのスペクトル線のみから帰属
するのは,特に,判決に影響する重要なピーク
としては別の分析法・装置やビームラインとあ
わせた総合的な分析結果によってのみMo の存
在が証明できるというべきである.入射X線エ
ネルギーを変化させて,Mo のKαもKβも観測
できるような入射X線エネルギーを選ぶべきで
あったのか,あるいはAsのサムピークが干渉し
て多量のAsが存在する中での微量Mo分析はか
なり無理があるというべきなのかは,示された
スペクトルが部分的なために判断できない.Mo
ピークの存在が有罪判決の重要な決め手となっ
たようなので,Moピークの分析は慎重であるべ
きであった.
この点は,谷口・早川鑑定では,卓上型ED-
図15 中井鑑定書のなかのKEK-PF でのXRF 測定ス
ペクトル.
X線分析の進歩 43 67
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
XRF によるMo LαとSR-WDX によるMo Kα1,
Kα2測定によって,Mo の存在が確実なものと
なった.
丸茂鑑定のICP-AES で消費してしまった紙
コップ付着粉末の追実験が,コップにわずかに
付着した中から0.1 mg以下の試料を採取して追
実験することが中井鑑定の目的であった.中井
鑑定では,丸茂鑑定でBiなどが検出されたとい
うことを知った上でビームラインの選定を行っ
た.中井鑑定で帰属されたピークはMo以外は
丸茂鑑定を裏付けるものであり,他の重要でな
い2次的なピーク(サムピークやコンプトン散
乱ピーク)に関して記述がない.丸茂氏の鑑定
結果を知った上で確認実験を行ったものであ
る.中井鑑定の新しい発見はMoの発見である.
ただしこれはKEK-PFでの結果である.SPring-
8でも Mo らしきピークは見えるが,励起断面
積が小さすぎて信頼すべきデータとは言えな
い.1回の分析から結果を出すのは誤差要因か
ら問題があるが,丸茂鑑定におけるICP-AES分
析では紙コップ付着粒子は29.1 mg の全量を1
回の分析で消費してしまい,2度目の実験がで
きなかった.中井鑑定では,紙コップに付着し
た0.1 mg以下の試料から丸茂鑑定のBi, Pb, Sb,
Sb, Sn の中からBi, Sb, Sn を検出できた点は
SPring-8の実験の成果である.またMo を新た
に発見することができた点はKEK-PFの成果で
ある.
通常広く信じられているような,犯人逮捕に
つながる決定的な分析は,SPring-8 で初めて得
られたわけではなく,すでに丸茂鑑定による
ICP-AES 分析で出されていた.この点,丸茂鑑
定をもっと高く評価すべきであると考える.丸
茂鑑定は5元素の濃度のレーダーチャートが一
致することを示しており信頼性は高い.
第43回公判の中井氏の証人尋問調書によると
上で議論した疑問点が明らかになる部分が多い.
中井氏の証人尋問調書の速記録は,第34, 42, 43
回公判の速記録がある.それぞれ,208, 162, 240
ページからなる長大なものである.43回公判の
速記録から一部分だけを以下の図16∼26,図28
∼32に抜粋する.
図16の段落が高い文章は弁護人,1段低い文
章は証人の発言である.弁護人が「砒素も,そ
の120 なんぼという高いものでも出てくるん
じゃないですか」と言っているのは,入射 X線
エネルギーが115 keV ということである.毛髪
中のAsのppm が「極めて少ない量」としている
が,ppmすなわち100万分の1程度の重金属濃度
の分析は現在,片手で持てる1WのX線管を用い
た装置で分析可能である16)
.1Wのハンドヘル
ド型蛍光X線分析装置で,日常的に輸入プラス
チック玩具中のAs, Cd, Pb などの有害元素が分
析されている.この点からも分析化学的には決
して「極めて少ない量」とは言えない.
図16 第43 回公判の速記録pp.33-34.
68 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
図17時間がないし,測定すれば出てくるのは自
明だから測定しなかったという回答は科学者と
しての発言としては問題が多いことは誰にでも
わかることである.
前節の図512)は,すでに説明したように,河
合らがSPring-8 にSEM-EDXを導入して同一試
料を電子ビームとSPring-8 のX線との2種類で
励起して測定したスペクトルの比較である.図
5の入射X線エネルギーは9 keV で,中井鑑定
の115 keV に比べれば十分に低いX線エネル
ギーでも,Kより軽い元素では電子ビーム励起
の方が感度が良い.従って,SEM-EDXで検出で
きてもKEK-PFでは検出できない場合もあるし,
KEK-PF で検出できてもSPring-8 で検出できな
い場合もある.
図18ではICPとSR-XRFとを比較しなかった
理由が述べられている.放射光蛍光X線分析で
は,定量という数値化をせず,ICP とは比較で
きない,ということである.SR-XRF でも定量
分析すべきであり,定量値を求めなかったのは
分析として問題がある.蛍光X線分析では,励
起断面積を用いても定量値が得られるし,コン
プトン散乱を内標準としたり検量線を用いても
定量分析は可能である.また濃度が既知のBiな
どを混ぜて類似の標準試料を自分で作成し,検
量線を引くなどしても定量値を求めることがで
きる.電離断面積や蛍光収率など(これらを
ファンダメンタル・パラメータと呼ぶ)をデー
タベースで調べたり,量子力学計算で求めて,
検出器効率のエネルギー依存性などを考慮すれ
ば,リファレンス・フリーの定量分析も可能で
ある.
図19で「八番」というのは SPring-8のビーム
ラインBL-08W と言う意味である.コンプトン
散乱実験などに用いるための100 keV 以上の高
エネルギーに向いたウィグラービームラインで
ある.シンクロトロン放射光を使って分析する
場合には,あらかじめ未知試料の概略が分かっ
ている必要があり,完全に未知な試料の場合に
は,見当はずれのビームラインを選択する可能
性が大きいことを示唆している.和歌山砒素事
件の場合には,あらかじめBi等を含んでいるこ
とが分かっている必要があった.
図20において,「ピークで30.3」というのは
30.3 keVのピークという意味である.「検出器
によっていろいろ偽のピークが出たり」するの
で,上でJIS規格を引用したように,スペクト
ルのピークの帰属はすべてのピークに対して行
うべきで,どうしても帰属できない不明のもの
についてもそれを明示すべきである.このピー
クについては別のスペクトルに関して, 図21
のようにサムピークではないかと回答してい
る.半導体検出器は,アンプの定数の決定が難
しく,少し変化させただけでもピーク位置が変
化したり,偽のピークが出現したり,強度比が
図17 第43 回公判の速記録 p.35.
X線分析の進歩 43 69
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
かったと言うことがわかる.
図24での質疑応答で明らかになるように,丸
変化する.ピーク位置の変化,偽ピークの出
現,相対強度比の変化が電気回路定数を変化さ
せるだけで生じるという実例を参考文献17)に
例示した.オシロスコープで十分に調整したう
えで測定する必要がある.また測定が長時間に
わたる場合には,半日おきに基準スペクトルを
測定してエネルギー校正などを行っておく必要
がある.
図22で洗剤や汗などからのPの汚染があると
いう可能性は否定できないが,だからと言って
分析する必要がないということにはならない.
丸茂鑑定では図7に示したようにPの濃度として
ICP で5ppm[資料(2),(3)]∼ 516ppm[資料
(7)]という分析結果を得ている.
図23は図18,19の繰り返しになるが,「アン
チモンとビスマスがあるという話は聞いており
ます」と言うようにどの元素を分析するかがあ
らかじめわかっていなければ,シンクロトロン
施設の選択や,ビームラインの選択ができな
図18 第 43 回公判の速記録 pp.58-59.図21 第43回公判
の速記録p.105.
図20 第 43回公判の速
記録p.103.
図19 第 43回公判の速
記録p.64.
図23 第 43回公判
の速記録p.118.
図22 第43回公判の速記録pp.112-
113.
70 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
茂鑑定のICP で簡単に検出できたSe は,
SR-XRFでは主成分AsのKβに重なって原
理的に分析できないことがわかる.
少し長いが,弁護人と証人のやり取り
を速記録から3ページに渡って抜粋した
ものを図25に示す.蛍光X線分析は本来
元素定量分析法であるが,定量結果を出
していないために苦しいやり取りが続い
ている.「ビスマスのピークはアンチモ
ン,スズと比べて数倍高い」と言う表現
が問題となっている.「数倍」というあい
まいな表現や「パターン認識」だから有
罪だとされたら,有罪にされた方も納得
できないであろう.鑑定ではそういうあ
いまいさは残すべきではない.パターン
認識とは端的に言えば,丸茂鑑定におけ
る図6のレーダーチャートである.丸茂鑑
資料(1)では,Na 393ppm,Mg 16 ppm,Al
138ppm,Fe 146ppm,Se 111ppm,Sn 25ppm,Sb
図25 第 43 回公判の速記録pp. 127-129.
図24 第43 回公判の速記録 pp.118-119.
定は明快である.
図7に示すように丸茂氏の鑑定結果では,鑑定
X線分析の進歩 43 71
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
23ppm,Pb 180ppm,Bi 55ppm,Ca 79ppmとい
うけっして微量ではない濃度の定量値が得られ
ている.他の鑑定資料もほぼ同様の濃度なので,
SPring-8 でなければ分析できない,という濃度
ではない.紙コップの付着資料のみ,ICP-AESで
消費してしまったので紙コップに付着している
程度しか残されなかったが,それでももう一度
ICP分析が可能な量である.
図26は,弁護側が中井氏のスペクトルをエク
セル形式の生データで得て,プロットしなおし
たもの(図27)についての証人尋問である.図
27と図12,14を比較すると,弁護人が出した図27
のプロットの方がずっと見やすいことが分かる.
X線分光に詳しい支援者が弁護側についていた
図26 第 43 回公判の速記録pp.131-133.
図27 弁護側が中井氏の
生データをプロットしなお
したスペクトル(弁 2号証
による).
72 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
クグラウンド決定及び定量化があって初めて蛍
光X線分析結果は裁判において説得力を持つこ
とができたと言うことができる.
図29で,弁護人が「モリブデンとスズ,アン
図28 第 43 回公判の速記録pp.125-126.
図29 公判の速記録pp.144-145.
はずである.中井鑑定は全
体に,弁護側は素人なので
「数倍」,「パターン認識」と
言うようなあいまいな表現
で押し切ろうとしている印
象を受けるが,裁判では専
門家として誠意を尽くした
回答をすべきであろう.
証人が「こういうような
法廷ではむしろパターン
で,一般の人が御覧になっ
ても分かるような形で,明
白に結果を出すのがいいと
思いましてあえて数値化し
なかったということです」
と述べているが,文書化や
数値化は分析化学にとって
も重要である.
図28で「もし弁護士さん
がそういう作業をなさるな
ら,…」という発言は,専
門家にしかバックグラウン
ドを引くことはできない,
素人がバックグラウンドを
引いても信用できないとい
う主張であろう.しかし,
バックグラウンドを引く場
合,個人差がでる方法で引
くべきではない.文書化し
て曖昧さが残らないように
するべきである.この点で,
後述するように早川鑑定で
行われた曖昧さのないバッ
X線分析の進歩 43 73
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
散方式でMo を測定したので,Mo Kα1とKα2の
ダブレットが明瞭に観測できてMo の存在証明
に成功した.
もし学生が卒論や修論の実験でMo Kαの1本
のピークだけからMoの存在を結論したら,Kβ,
Lα,Kα2 なども確認するように指導する.また
SIMSなど別の分析法も用いるように指導する.
パターン認識やMoの特性線が1本しか出ていな
いという証人尋問を聞いていた人は誰もが(被
告人も含めて)有罪の立証は無理だと思ったで
あろうことが,速記録を読むと法廷にいるよう
に感ずる.それを何より証明する事実は,裁判
官が谷口・早川鑑定が出た時点で,補足として
Moの部分拡大スペクトルをプロットしてほしい
と要請したことが示している.もしKβ,Lα,Kα2
などのうちのひとつでも出ていないことが証明
できれば,判決は逆転する可能性があったから
である.谷口・早川鑑定では,Kβはサムピーク
チモンを比べなかったのはどうしてなんでしょ
うか.」と質問したのに対して「こういうような
高いバックグラウンドの下で,微量のモリブデ
ンの有無を比較するのは適切ではないと判断し
たからです.」という回答からわかるのは,Moの
有無の判定は非常に大きなあいまいさが入る余
地があることを意味している.
図30で問題にされているバックグラウンドの
変動に関しては,早川鑑定では,後述するよう
に,直線のバックグラウンドの積分強度をデー
タの信頼性を示す指標として使っている.
図31の議論はMoに関するものである.Kαだ
けでなくKβも存在しなければ,元素の存在を断
言することはできないが,その点が図15では問
題となる.「拡大すれば見えていると思いますけ
れども,小さいところがそれに当たると思いま
すね.」とあるが,Kβの存在は図15だけからは
明らかではない.谷口・早川鑑定では,波長分
図30 第43回公判の速記録pp.137-138.図31 第 43 回公判の速記録 p.221.
74 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
に隠れてやはり観測できなかったが,卓上型蛍
光X線装置ではLαが,波長分散型シンクロトロ
ン蛍光X線分析ではKα2が観測できたので,Mo
の存在証明ができた.
図32 の議論からわかるのは,弁護人もサム
ピークをよく理解していることである.現在な
らSDD を用いるので,SSDのようなスピード
の遅い検出器によるサムピークはそれほど強く
は現れないであろうが,当時はSPring-8の見解
として,SDD でも本質はSSD と同じで高計数
率には対応できない,という見解であった.こ
れは後に間違いであることが示された.ただし
SDDは半導体の厚みが薄いので,高エネルギー
X線に対しては検出効率が悪いという点にも気
をつけるべきである.通常の蛍光X線に比べて
サムピークが強く出てくる分析法は,サムピー
クより弱いピークについてその存在を主張しづ
らくなる.3光子のサムピークも出ているはず
である.
5. 谷口・早川鑑定
中井鑑定で X線スペクトル表示方法や分析結
果の表し方について苦言を述べたが,谷口一雄氏
と早川慎二郎氏による共同鑑定では,中井鑑定の
問題点がすべて明確にされており,この意味で優
れた鑑定結果である.鑑定書の末尾には,用語の
説明として,「放射光」,「原子の励起と緩和」,「蛍
光X線」,「特性X線」,「エネルギー分散型蛍光X
線分光法」,「波長分散型蛍光X線分光法」,「蛍光
X線強度の資料厚さ依存性」,「半導体検出器」,
「妨害ピーク」,「エスケープ・ピーク」,「サムピー
ク」,「検出下限」,「バックグラウンド」,「積分強
度(グロス,ネット)」,「X線の散乱(コンプトン
散乱,レーリー散乱)」という項目が各1∼2ペー
ジで説明されており,X線の教科書としても使え
るほど親切な鑑定書である.総ページ数は 350
ページあり,鑑定書としては異例の長さという.
中井鑑定は急いでなされたものであり,犯人
逮捕を目的とした分析であったため,その粗雑
さは致し方ないというべきかもしれない.裁判
における証拠能力という点では,中井鑑定は上
述したように問題が多い.もし弁護側がX線分
光について良く理解した上で,谷口・早川鑑定
を使わずに中井鑑定のみで反論したとしたら,
判決が覆っていた可能性も否定できない.しか
し,弁護側が要求した谷口・早川鑑定は,形式
的には平成13年7月13日付けで和歌山地方裁判
所裁判官から命ぜられたものであるが,中井鑑
定を定量的なものへと高精度化し,しかもデー
タの信頼性に関する指標を伴って示したもので
あり,4節のいわゆる「パターン認識」のよう
な任意性の入り込む隙のない,信頼できる分析
結果を与えた.この鑑定では,図33の4点につ
いて鑑定を命じられたということである.
図32 第43 回公判の速記録 p.222.
X線分析の進歩 43 75
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
図34 測定の実験配置(谷口・早川鑑定).
「鑑定書」は当初平成13年11 月5日付で作成さ
れた後,裁判官から,鑑定資料6から9について
鑑定資料1から5と同種のものであるかどうかの
判断を主文に加えてほしいという要請を受けて,
「鑑定書(補充)」を 11 月15 日付けで作成した.
バックグラウンドは,谷口氏によってスペクト
ルの30点を曲線で結んだものであったが,「鑑定
書」作成段階ですでにその問題に気づいた早川
氏がピークの両側各5点の平均を直線で結んだ
ものにしなければ定量結果の誤差が大きいので,
「鑑定書(補充)」作成時にバックグラウンドを
直線に変え,その後「鑑定書(訂正)」を 11月22
日付で提出したものである.このような厳正な
スペクトル処理は,弁護側の意に反して,逆に
判決をゆるぎないものとした.化学分析は,事
実を示すものであり,最初から誰かを犯人にす
る目的で恣意的になされるものではない.その
意味で,弁護側鑑定を緻密に検討し,Moのスペ
クトル部分の拡大などを谷口・早川鑑定の追加
として要求した裁判官の判断は,X線分析を正
しく理解した結果である.化学分析は中立であ
り,正しい分析は正しい判断のために必須なも
のである.
谷口・早川鑑定書が出たとき,裁判官が真っ
先に知りたかった点はMo の存在が証明されて
いるかどうかであったと思う.
早川鑑定は,SPring-8 ビームラインBL-08 W
(116 keV,Ge検出器,測定時間1000秒,一部3000
秒)およびBL-39XU(23 keV,LiF(200)波長分
散型,標準試料10 µm厚Mo箔,ビームサイズ水
平1 mm ×垂直2 mm,蛍光 X線の試料からの取
り出し角 10°,Mo Kα1 = 10.138°(θ),Kα2 =
10.200°,結晶は固定しシンチレーションカウン
タを1°/50 で21 ステップ走査,1点90 秒,弱い
ものは90 秒4回,または1点200 秒測定)であ
る.測定の実験配置を図34に示す.
図35 にはBL-08W の116keV 励起の測定スペ
クトルを示す.これは「鑑定資料4」を測定した
図33 鑑定を命じられた事項(谷口・早川鑑定).
76 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
結果で,「鑑定資料4」だけは「同一資料で場所
を変えて測定を行った」.異なる場所5箇所を測
定し,同一試料中で違う場所のスペクトル変化
を調べた.シンクロトロン・ビームが照射され
ている位置は,図35の写真に○印で示されてい
る.図36は図35 の2つのスペクトルから 30 点
を通る曲線バックグラウンドを差し引いたスペ
クトルと,その一部拡大スペクトルである.図
35や図36では並んで示したフルスケールが少し
違っているのでスペクトルの絶対強度が測定場
所の違いによって異なることが分かる.あるい
は入射光が指数関数的に減衰してゆく影響が出
ているのかもしれない.スペクトルの全体的な
形はよく似ている.これらのスペクトルは後述
するように試料による自己吸収の大きさに応じ
て,元素ごとにレーリー散乱またはAsピークに
よって規格化して定量結果を算出した.対照資
料の中にはサンプリングごとに大きく異なる定
量結果が得られた資料もあり,後で引用するよ
うに,その分析結果の取り扱いには注意したと
言うことである.
図37は別の試料の拡大図である.サムピーク
がなぜ出現しなかったのか鑑定書だけからは理
解できなかったが,検出器の構成元素 Ge Kα線
(9.9 keV)の分だけ強い線(Ba)から離れたエ
スケープピークも帰属されている.エスケープ
ピークはどの線にも出現するし,Kβ線エネル
ギーだけ離れたエスケープピークも弱いが出現
図35 同一資料の違う部位のスペクトルの異同を測定した例.ビームの位置は写真の丸印.(谷口・早川鑑定).
X線分析の進歩 43 77
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
ウントなので,カウントレートが低いため,テー
ルがなくなり,サムピークが現れず,隠れていた
エスケープ・ピークがみえるようになった.
As KαとPb Lαは同じエネルギーのためにピー
クが重なるため,その定量ではPb Lβを使わな
ければならない.Pb Lβの強度からその装置に固
有なPb Lα:Lβ強度比を用いてPb Lαを知り,そ
の強度をAs Kαから引くことによってAs Kα強
度を求める.Pb LαとLβの強度比は,装置だけ
ではなく,スペクトルの測定条件によっても大
きく変化する18)
.文献 18)は2007年の出版で,鑑
定の後で広く知られることになった現象である
が,谷口・早川鑑定のころでも標準試料を用いて
Lα:Lβを求めておくことは普通に行われていた.
図36 図35の2箇所のスペクトルの曲線のバックグラウンドを引いたスペクトルとその一部拡大スペクトル.
(谷口・早川鑑定).
図37 他の拡大スペクトル.(谷口・早川鑑定).
するので実際には複雑である.このスペクトルは
他のスペクトルに比べてピークの低エネルギー側
のテールもない.縦軸のフルスケールが3500 カ
78 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
図38はBL-39XU で測定したWDXスペクトル
である.S/Nは悪いが,横軸21チャネルの範囲で
Kα1:Kα2=2:1の実線のスペクトルが得られて
いる.この様にKα1:Kα2=2:1のスペクトルが
測定できたことからMoという帰属が初めて確か
なものとなった.しかし,測定によっては横軸が
ずれているスペクトルがあるので,分光器の再現
性に問題があったこともわかる.また横軸がエネ
ルギーに変換されていないため,スペクトルの半
値幅が変化している理由もよく分からない.
谷口・早川鑑定では,兵庫県警科学捜査研究
所二宮利男氏の鑑定書と同じセイコーインスツ
ルメンツ製卓上型SEA5120によっても蛍光X線
測定しており,図39 はその一例である.Mo Lα
線が鑑定資料から測定されており,Mo管を用い
ていない装置なら,Moの存在が証明されたとい
うことができる.
図40 は図6で示した丸茂鑑定のレーダー
チャート図に対応する.丸茂鑑定では5元素五角
形であったが,谷口・早川鑑定では3元素三角形
で,信頼性は丸茂鑑定に比べて低い.しかし,
バックグラウンドをスペクトル上の30点を結ぶ
曲線から,各ピークの両側を直線で結ぶ方式に
変更したことによって,特にSnのばらつきが小
さくなっていることがわかる.直線バックグラ
ウンドによって鑑定資料1∼5の異同識別がより
確実になった.
試料は160 µm厚さ相当のペレットを作成し,
透過力の高いBi,Ba はX線に対して薄い試料,
透過力の低い Sb,Sn,Mo についてはX線に対
する厚さが無限厚さの試料として定量分析した.
Bi,Ba 蛍光X線強度はレーリー散乱(116keV)
図38 BL-39XU で測定したMo Kα1,2 スペクトル.(谷口・早川鑑定).
図39 セイコーインスツルメンツ製SEA5120 卓上型
EDXRF装置によるスペクトル測定例.(谷口・早川鑑定).
X線分析の進歩 43 79
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
で規格化し,Sn,Sb の蛍光X線強度はAs蛍光X
線強度で規格化した.ICP-AESによる定量値と,
規格化された蛍光X線信号強度を用いて検量線
を作成した.その直線性については公判におい
て図41のような質疑があった.
検出下限を濃度0におけるバックグラウンド積
分強度の標準偏差の3倍とした.BL-08W での検
出下限は以下の通りである(単位はmg/kg):Mo
118;Sn 2.2;Sb 3.2;Ba 0.5;Bi 1.3.またBL-39XU
でのMoの検出下限は5mg/kg(すなわち5ppm)で
ある.どの検出下限もシンクロトロン放射光と
いうイメージから思うほど良くはない.
図40 Sn,Sb,Bi によるレーダーチャート.(左) 最初の谷口・早川鑑定,(右)バックグラウンドを直線に変
更して定量値を出しなおした後のレーダーチャート.(谷口・早川鑑定).
図42 第 84 回公判の速記録p.7.
図41 第84 回公判の速記録p.5.
80 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
蛍光X線強度は元素によってレーリー散乱
(116 keV)で規格化したり(Bi,Ba),As 蛍光
X線強度で規格化(Sn,Sb)した理由が図42 に
述べられている.早川氏によって計算された試
図43 亜ヒ酸中の微量元素特性X線の厚さによる強
度変化.(谷口・早川鑑定書).
図45 鑑定書(補充)添付の補Ba18 鑑定資料 7のスペ
クトルと第 86 回公判の速記録pp.15-16.図44 第84 回公判の速記録 pp.17-18.
X線分析の進歩 43 81
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
料厚さ依存性を図43に示した.
図44∼50 を第 85,86,88回公判の速記録か
ら抜粋して示す.谷口・早川鑑定が非常に慎重
になされていることを示すものである.
SR-XRF から得られた定量分析値について,
図44のような質疑応答がなされている.ここで
mg/kg はppm と同じ意味である.
バックグラウンドとして,30 点を通る曲線か
ら,ピーク両端を通る直線へ変更した理由は図
45の証言の通りである.
定量分析に用いた検量線法の説明は図46の証
言の通りである.
Sn,Sb,Mo はAs強度で割り算し,Bi,Ba は
入射SR光の弾性散乱ピーク(レーリー散乱ピー
ク)強度で割り算した.その理由は図47の通り
である.
図47 第87回公判の速記録pp.15-17.
同じ体積の試料でも,厚くて小面積のものと,
薄くて大面積のものがあったとき,定量値を正
しく求めるための理由も説明されている.
分析値のばらつきが大きかった試料に関して
図46 第 86 回公判の速記録p.26.
82 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
どのように分析値を扱ったかは,図48のように
説明されている.
図49ではMoの検出ができるかできないかは,
ビームラインの選択にかかっており,適切では
図48 第87 回公判の速記録 pp.33-34.
ないビームラインを選択するとMo が検出でき
なかったかもしれないという点が議論されてい
る.この点は図17の証言と比較して読むと,谷
口・早川鑑定が慎重に計画されて実験されたこ
とが良くわかる.
試料の厚さは,
(レーリー散乱強度)/(As 蛍光 X線強度)
から求められることが,図50に説明されてい
る.
6. おわりに
本稿の結論はすでに第1節で述べた.
中井鑑定は,谷口・早川鑑定に比べると大雑
把なもので,その分析結果の信頼性は,専門的
に見ると高くはない.もし弁護側が中井鑑定の
穴(例えば ① 帰属されていないスペクトル線の
起源,② 同一試料から得られた検体間のばらつ
図50 第87 回公判の速記録 pp.56-57.
図49 第87 回公判の速記録 p.45.
X線分析の進歩 43 83
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
きの大きさ,③ 出所の異なる試料間の差異の大
きさ,④ シンクロトロン放射光を別の日時に測
定したり,別の測定者が測定したためのデータ
のばらつき,⑤ テーリング,⑥ レーリー散乱
ピークの欠如,⑦ 定量値の欠如,⑧実際のカウ
ント値の欠如,⑨ Moのスペクトル線が1本しか
観測されていないこと,など)について反論をお
こなったとすれば,「パターン認識」で異同識別
を行ったという結果は覆る可能性も大きく,判
決の内容が正反対となった可能性も考えられる.
犯罪現場からのサンプリング(試料),検体(ま
たは試験片)間の異同,異なる日の測定による変
動,異なる分析者による変動,ビームラインの
相違によるスペクトルの変化など分析研究者な
らあって当たり前の変化が,無いと仮定して示
された結果は信頼性に問題がある.スペクトル
はいつも同じ結果が得られるとは考えられない.
一方,谷口・早川鑑定は,同一試料の位置の違
いによって,スペクトルすなわち分析結果がど
のように変化するのかなど,データのばらつき
の範囲を詳しく調べ,その差はけっして小さく
はないが,出所が異なる試料はさらに有意な差
異があることを示した.裁判官は谷口・早川鑑
定の重要性を見抜き,Mo部分の拡大スペクトル
を要請して,当初含まれていなかった決定的な
有罪の証拠をスペクトルの中から見つけ出すこ
とに成功している.分析結果を十分に理解して
用いた裁判官の判断が正しかったと考えられる.
早川氏は,100 keVを超ええる高エネルギー蛍
光X線分析法の新しい手法を確立したと言うこ
とができる.論文として出版されなかったのは
惜しいが,いまやSPring-8の分析では,レーリー
散乱で割り算するなどの手法が,誰にオリジナ
リティーがあるかという文献引用もなく,日常
的に当たり前に使われている.
谷口氏の証人尋問において,「類似」を「同種」
へ訂正する場面がある.その後この用語の意味
の違いをめぐって長時間を費やしている.再審
弁護団へX線分析データのレクチャをした際に,
最初の質問は,分析化学では「類似」,「同種」,
「同一」などの定義はどうなっているのか,と言
うものであった.分析化学の分野にはそのよう
な用語の定義は無い.
X線スペクトルを裁判に用いる場合,丸茂鑑
定のX線スペクトル表示は,すべての観測ピー
クを帰属しているという点では見本となるべき
ものである.
谷口・早川鑑定は,シンクロトロン放射光に
おける同一試料の位置の違いによる分析値のば
らつき,2次的なサムピーク,エスケープピーク,
バックグラウンドの引き方など,慎重に検討し
て分析結果を得ており,その信頼性はきわめて
高い.証拠物品の異同識別に関して信頼できる
結論を得ている.鑑定書のページ数が長大で弁
護側も検察側も十分消化できなかった可能性が
ある.
SPring-8 の放射光蛍光X線分析が注目された
ため,ICPで分析した軽元素,特にAs と同族の
Pや混ぜ物とした小麦粉,セメントなどの構成元
素である軽元素の分析が軽く見られることに
なった.判決文は入手しなかったので詳細は不
明であるが,SPring-8で,しかもBL-08Wという
高エネルギーX線ビームラインで分析できる元
素だけが最終的に証拠として重要視された可能
性が高い.放射光蛍光X線は特に感度が良いわ
けでも,試料量が少なくすむ唯一の分析法でも
ない.元素分析法に限ってもICP-MSやSIMSな
ど,代替分析法が多い.蛍光X線分析法を専門
とする私としては複雑な心境であるが,放射光
蛍光X線でしかも1つのビームラインで分析し
84 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
た結果だけからは確実な分析結果を得るのは難
しい.
シンクロトロン放射光を用いる鑑定の問題点
は次のように列挙することができる.
(1)ビームラインの適切な選定は,あらかじめ
目的の元素が分からなければできない.
(2)1つのビームラインは万能ではなく,その
ビームラインでもれた元素が重要な役割を果
たす可能性がある.今回はSe やPb が測定で
きなかった.
(3)シンクロトロン放射光で測定できなかった
元素を軽視する傾向があった.今回は軽元素
を軽視する傾向があった.
(4)シンクロトロン放射光の検出下限は他の分
析法と比較しても決して良くはない.今回の
検出下限はppm.ICP-AESではppb,pptなど
まで分析できる.
(5)シンクロトロン放射光の定量方法はまだ十
分なノウハウが蓄積されていない.本稿がノ
ウハウ蓄積の一助になればと思う.
(6)強い入射光のために,サムピークも強く,重
要なピークの妨害となる.今回はMo KβがAs
のサムピークのテールに重なった.
(7)シンクロトロン放射光は複数のビームライ
ンで測定が必要となったとき,ビームタイム
を必要に応じて取ることが難しい.
(8)シンクロトロン放射光での実験は,実験終
了後には実験配置をいったん解体するので,
再現性の良い実験ができない.
などの問題がある.
2006 年パリで開催されたEXRS(European
Conference on X-Ray Spectrometry)会議では,シ
ンクロトロン放射光の初期に,化学分析に応用
したChevallier教授を記念してシンポジウムが行
われた19)
.その中でリスボン大学のMaria Luisa
de Carvalhoは,ナポレオンI世の毛髪を分析する
際に毛髪を1本紛失して大騒ぎになったという
講演をした.毛髪はシリンダー型で,測定結果
は解釈が難しいと言うことである.また生前,死
後の毛髪外部の影響によって変化し易いために
注意が必要だと言うことである20)
.ナポレオン
I世の毛髪は1960 年代初頭に,中性子放射化分
析されており,10∼38ppmあったことからAs中
毒とされたが,20年後に行われた分析では,As
は正常値でむしろSbが高い濃度を示した21)
.中
性子放射化分析ではAs とSb の分離が難しい.
Chevallier ら19)の分析結果では再び高い濃度の
As が検出されたが,Carvalhoの言う様に,死後
の保存状態による可能性もあってナポレオンの
死因とすべきかどうかは難しいということのよ
うである.中井氏の毛髪中の砒素の分析につい
ては詳細は述べなかったが,中井氏は自身の毛
髪に砒素をこすりつけて数ヶ月間通常の生活を
した後,毛髪のAsが放射光によって分析できた
という画期的な結果を示した.外部からこすり
着けることによってAs と毛髪との間に化学結
合が生じたことを示している.毛髪は断面の元
素マッピングもシンクロトロン・マイクロ・
ビーム分析で可能になっているので,そういう
分析によって中井氏の分析がどういうもので
あったのか詳しく調べる必要があると思われる.
ICP 分析が大きな役割を果たしたことを述べ
たが,最近は1ワットの X線管を用いる小型ハ
ンディー型全反射蛍光X線分析装置でも1pg の
絶対検出下限が得られることが示され,SPring-8
で得られたfg にあと3桁まで迫るところまで来
た22)
.全反射蛍光X線分析でも,ICP と同様に
試料は水溶液とするが,試料台に滴下乾燥して
測定するので,その試料の永久保存が可能とな
る.プラズマ中で試料を燃やしてしまうICP 法
X線分析の進歩 43 85
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
に替わる方法となるのではないかと思っている.
「パターン認識」という言葉が素人用法で裁
判に頻出したが,パターンの一致度を数量化す
る研究は古くから行われている.たとえば樹状
図(dendrogram)を用いる統計的な手法もある
23)
.こうした手法が使われなかったのは不思議
である.
参考文献
1) 三好万季:毒入りカレー殺人犯人は他にもいる,
文藝春秋,98 年11 月号,122-134 (1998).
2) 河合 潤:分析科学と社会,資源と素材,117,
627-629 (2001).
3) 中井 泉:毒カレー事件のX線鑑定はこうして
行った,第35回X線分析討論会講演予稿集,p.129,
1999 年11 月4日∼5日,東京理科大,新宿区.
4) 日本分析化学会編:「分析および分析値の信頼
性」,(1998),(丸善,東京).
5) JIS K 0190:マイクロビーム分析−電子プロー
ブマイクロ分析−波長分散型X線分光による点分
析における定性分析のための指針 (2010).
6) A. Sommerfeld: “Atombau und Spektrallinien”, 4th
ed. Druck und Verlag von Friedr.Vieweg & Sohn Akt.-
Ges., p.264 (1924), (Braunschweig). 第5版(1931)に
はLλは出ていない.
7) M. Siegbahn: “The Spectroscopy of X-Rays”, 英訳
版,p.109 (1925), (Oxford Univ. Press, London).
8) Y. Cauchois, H. Hulubei: “Longuers d’Onde des
Emissions X et des Discontinuités d’Absorption X”,
(1947), (Herman and Co., Paris).
9) 本号の酒徳らの論文参照.
10) 澤 龍,今宿 晋,一田昌宏,河合 潤:希釈イオ
ン液体による絶縁性試料の高倍率におけるSEM
像観察およびEDXによる組成分析,表面科学,32,
659-663 (2011).
11) 河合 潤,石井秀司:SEM-EDX −SR-XRF-
XANES, J. Surf. Anal., 12, 384-389 (2005).
12) J. Kawai, H. Ishii, Y. Matsui, Y. Terada, T. Tanabe,
I. Uchiyama: Risk assessment of TiO2 photocatalyst by
individual micrometer-size particle analysis with on-
site combination of SEM-EDX and SR-XANES micro-
scope, Spectrochim. Acta Part B, 62, 677–681 (2007).
13) 河合 潤:比例計数管,X線分析の進歩,35,209-
222 (2004).
14) 前田邦子,河合 潤:X線微量分析の妨害線:放
射的オ−ジェサテライト,X線分析の進歩,25, 25-
38 (1994).
15) T. Papp, A. T. Papp, J. A. Maxwell: Quality assurance
challenges in X-ray emission based analysis, the ad-
vantage of digital signal processing, Anal. Sci., 21, 737-
745 (2005).http://www.jstage.jst.go.jp/article/analsci/
21/7/737/_pdf
16) 河合 潤:ハンディー型蛍光X線元素センサー,
材料と環境,60,512-517 (2011).
17) 河合 潤,村上浩亮,小山徹也: 半導体検出器,
X線分析の進歩, 36, 189-200 (2005).
18) 塩井亮介,佐々木宣治,衣川吾郎,河合 潤:ビ
スマス,鉛,スズの蛍光X線Lα:Lβ強度比の変
化要因,X線分析の進歩,38,205-214 (2007).
19) P. Chevallier, I. Ricordel, G. Meyer: Trace element
determination in hair by synchrotron x-ray fluorescence
analysis: application to the hair of Napoleon I, X-Ray
Spectrom., 35, 125-130 (2006).
20) M. L. Carvalho, A. F. Marques, J. Brito: “Synchrotron
radiation and energy dispersive X-ray fluorescence
applications on elemental distribution in human hair
and bones”, American Institute of Physics, Conf. Proc.
653, Melville, New York, pp.522-528 (2003) .
21) ロバート・H・ゴールドスミス:「砒素」を求め
て,「科学捜査−続・化学と犯罪−」(“More Chem-
istry and Crime, From Marsh Arsenic Test to DNA Pro-
file”, Eds. S. M. Gerber, R. Saferstein, American Chemi-
cal Society, 1997),山崎 昶 訳, pp.171-193 (2000)
(丸善).
22) S. Imashuku, D. P. Tee, H. Seki, H. Miyauchi, O.Wada,
J. Kawai: J. Anal. Atom. Spectrom., (inpress).
23) 三島有二,丸山はる美,樋野賢治,津越敬寿,齋
藤直昭,西本右子,三井利幸:ソフトイオン化質
量分析法と多変量解析法を用いる植物油脂の定性
分析,60 (5), 409-418 (2011).
86 X線分析の進歩 43
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
[附録:用語集]
サムピーク:検出器に2個のX線光子が粒子として同
時に(検出器の時間分解能以下の時間内に)入射
したとき,その和の電圧の電子パルスが発生する
現象.スペクトルでは,強いピークの 2倍のエネ
ルギー位置にピークが観測される.
EPMA:電子プローブX線マイクロアナライザー.電
子ビームを入射させ,それによって励起された特
性X線を用いて元素定性・定量分析を行う.軽元
素(原子番号がおよそ18番以下の元素)では,シ
ンクロトロン放射光による蛍光X線分析法より感
度が良い.波長分散(WDX)を使うものだけを
EPMAと呼ぶと考える人もあるが,詳細について
は,ISOに関する本号の別の論文を参照.
SEM-EDX:走査型電子顕微鏡にエネルギー分散型X
線分光器をつけた分析装置.原理はEPMA と同
じ.形態観察をする走査型電子顕微鏡を強調した
呼び方.EDX型EPMA と呼んでも良い.鑑定書で
は「X線マイクロアナライザー」と呼ばれている.
cps:カウント・パー・セカンド.1秒間のカウント数.
KEK-PF:つくば市の高エネルギー加速器研究機構
(KEK は旧名称の高エネルギー研の頭文字)にあ
るシンクロトロン放射光施設.Photon Factory「光
子の工場」はシンクロトロン放射光施設一般を指
す普通名詞ではなく,つくばのKEKのシンクロト
ロンだけを指す固有名詞である.
SPring-8:8GeV のSuper Photon リングという意味と
光が泉のように涌くスプリングをかけたネーミン
グの,西播磨の大型放射光施設を指す固有名詞.
Rayley散乱:弾性散乱ピークとも言う.シンクロトロ
ン放射光の単色入射X線がそのまま散乱されてエ
ネルギーが変化しないで観測されるピーク.
Compton散乱:非弾性散乱ピークとも言う.シンク
ロトロン放射光の単色入射X線のエネルギーが
やや低くなって散乱される現象.20 keV 以上の
高エネルギーでは,エネルギーが高くなるほど,
試料の元素組成が相対的に軽元素になるほど強
くなる.
ICP-AES:誘導結合プラズマ発光分光分析.水溶液試
料中の元素分析法.水溶液を電子レンジのような
高周波電磁場に噴霧してアルゴンガスとともに発
光させ,発光ピークから元素の定性・定量分析を
行う.消費した試料は回収できない.pptレベルま
で分析できる.
ICP-MS:誘導結合プラズマ質量分析.ICP-AES より
感度が良い.試料量もより少なくて可能.
XRD:X線回折.結晶構造をX線回折によって分析す
る.亜砒酸(As2O3)と砒酸の違いなど結晶構造の
違いを分析できる.
IR:IR はインフラ・レッド,赤外線の意味だが,本
稿では赤外吸収分光分析法を指す.分子構造の違
いを,分子振動スペクトルによって知る.XRDと
同様に構造解析が可能.
ppm:1ppm は100 万分の1の濃度.1000ppm は0.1%
を表す.通常は重量分率を意味する.
ppb:ppm より3桁薄い濃度.
ppt:ppb より3桁薄い濃度.
XRF:蛍光 X線分析法.1次X線を入射させ,それに
よって励起された蛍光X線を使って元素定性・定
量分析を行う方法.実験室のX線管装置で ppm,
シンクロトロンでppbまで容易に分析できるとい
われている.
試料,資料,検体,試料片,資試料,被検物質:サン
プリングしたものを試料(sample)と呼ぶ.犯罪
現場のすべての物質(空気も含めて)を分析するこ
とはできないので,そこから意味のある部分をサ
ンプルとして採取したものという意味である.そ
のサンプルから一部をとって装置に導入して測定
した場合,装置に導入した部分を検体・試料片な
どと呼ぶ.英語ではspecimen である.資料は裁判
に資するという意味であろうが,分析化学の
sample-specimen とは違う概念の用語である.「資
試料」という用語が使われることもあるが,分析
の対象となる「試料」とその分析結果を文書にし
た「資料」をあわせて含む用語である*.被検物
質は薬品に対して使われる場合が多い.本稿では
資料と試料はほとんど同じ意味で混合して使われ
ている.
*日本分析化学会編:「分析および分析値の信頼性」
丸善 (1998) p.24.
バリデーション*:妥当性確認.特定の分析法の不確
かさの評価,その方法が適切であることを実証す
X線分析の進歩 43 87
和歌山カレー砒素事件鑑定資料―蛍光X線分析
るための検査.その方法が合目的的であることの
確認.
*日本分析化学会編:「分析および分析値の信頼性」
丸善 (1998) p.24.
精確:精度と正確さの両方がともに高いことを表す.
SOP:標準操作手順書,standard operation procedure
SIMS:2次イオン質量分析法.イオンビームとして各
種,質量分析法としても各種あるが,最も感度の
良い分析装置は「はやぶさ」の小惑星の分析にも
使われようとしている.
調製:薬学用語で,試薬を調合すること.試料調製
(sample preparation)という.裁判の速記録では「調
整」と記述されている.
EDX (EDS):エネルギー分散型X線分光法.半導体検
出器を用いる.全元素同時測定が可能.
WDX (WDS) :波長分散型 X線分光法.分光結晶を
用いる.結晶分光器を回転させながらスキャンす
る必要があるが,エネルギー分解能が高く,Kα線
はKα1とKα2に分離して観測できる.
SSD:半導体検出器.Solid State Detector の略.Si,
Si(Li),Ge などがある.高計数率に対応できない.
積分強度で1万cps 程度までなら直線性が確保で
きる.一般にSDDより効率がよく,特に高エネル
ギーX線の検出効率が高い(半導体層が厚いか
ら).1990 年代まで使われた.
SDD:シリコン・ドリフト検出器.SSD と同じ原理で
あるが,100万cps 程度の高計数率に対応できる.
半導体層が薄いのでX線が透過してしまい,高エ
ネルギーX線の検出効率が悪い.1990年代後半か
ら盛んに使われ始めた.