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『ア フ リ カ研 究 』56.2000.3 73
研究情報
ラ テ ン ア メ リ カ か ら ア ジ ア ・ア フ リ カ 地 域 を考 え る こ と
―メキ シコ大学院大学 アジア ・アフリカ研 究セ ンターを中心 に1)―
モ ニ カ ・ セ ハ ス*
Constructing a Latin American Discour se on Asia and Africa:
The Case of Center of Asian and African Studies at El Colegio
de Mexico, Mexico city
Monica Cejas*
1. は じめに
われ われ は自分たち 自身で,自 分 た ちの 目
で他の国々について知ろうとしなければなら
ないのです°でなければ,ど こか第三国の基
準 に頼 ることになって しまうで しょう2)。
これ は,ア ジア ・ア フリカ研究 セ ンター― 通
称CEAA(セ ア)― が ラテ ンア メリカに とって
どの ような意義 をもつのか,と い う問い を受けて
同セ ンターを擁するメキシコ大学院大学3)の学長
が述べたことばである。メキシコ大学院大学
以下で は通称の 「コレヒオ」 と記 すこ とにする―
― は,CEAAを つ うじて,未 来 の外交官,研 究 者,
各地域についての知識 を普及 してい く人びとを養成
して きた。異な る文化空 間を連結 し,出 会いの場
を創 りだ し,知 識の交換 とそのスペイン語 による翻
訳 を可能 とす るよ うな <開か れた境域(frontera
abierta)> を生み出 して きた。そ こで得 られた知
識 をよ り広範な層 に対 して利用可能 な もの として
い くこと― これこそが,CEAAの コースを履修
し,卒 業 を認め られた者 たちが再 びラテ ンアメ リ
カの各地に点在する故 国に戻 ったあ とに期待 され
て きた 役 割 とい え る だ ろ う。CEAAが,真 に 自律
的 な交 流 の 場 と して存 在 す る た め に は,そ の よ う
な対 話 を可 能 とす る よ うな 条件 を整 え て い か な け
れ ば な ら なか っ た。 こ の こ とか らそ の教 育 方 針 の
なか には次 の2点 が 含 ま れ る こ とに も なっ た 。一 つ
は一次資料を直接利用できるようになるための地
域言語の習得である。いま一つは,各 地域専攻に
対 応 す るそ れ ぞ れ の 地 域 か らの教 員,あ る い は 理
論 ・方 法 論 の 面 で 先 端 的 な 知識 を提 供 で きる よ う
な ヨー ロ ッパ,北 米,そ して ラテ ンア メ リカか らの
専 門 家 を客 員 教 員 と して招 聴 す る こ とで あ る4)。
こ の 小 論 で は,コ レ ヒ オ にCEAAを 創 設 す る
にい た る過 程,な ら び に そ の い くつ か の 特 色 を 示
して い くこ と に な る。 また,本 誌 の性 格 を考 慮 し
て,特 にアフリカ地域研究科に焦点をあてること
にする。しか しアフリカ地域研究の特色を分析す
る前提 と して,ま ず そ の 制 度 的 な 文 脈 を 構 成 す る
CEAAに ついて述べていかなければならない。
1964年,コ レ ヒオ の 国 際 学 研 究 セ ン タ ー(CEI)
の な か の 一 つ の コ ー ス と し て,「 東 洋 学研 究 科
(Seccion de Estudios Orientales)」 がユ ネ ス コの
援 助 を 受 け て 創 られ た 。 こ れ がCEAAの 前 身 で
あ る 。1960年 代 当 時,ユ ネ ス コ は 「東 洋 ― 西 洋 」
プ ロ ジェ ク トを進 め,地 域 研 究 を 積 極 的 に 支 援 し
て い た 。 ア フ リカ研 究,ア ジ ア 研 究 も 当 然,そ の
なかに含まれた。「東洋学研究科」はこうした気運
*津 田塾大学大学院国際関係学研究科後期博士課程
Tsuda College, Graduate School of International
and Cultural Studies
74 モ ニ カ ・セ ハ ス
の なか で誕 生 したのであ り,名 称 もこのユ ネスコ
の プロジェ ク トに由来 した。他方,メ キシコ国 内
で は,当 時 の ロペ ス ・マ テオス大統 領の もとで,
「国際主義(internacionalismo)」 が対外的 な開放
の イデオロギー として鼓吹 され,こ の ことが国際
学研究センターの新設プロジェク トにとって追い
風 となった。1964年2月,同 研 究科 には25人 の学
生が入学 した。内訳 は,メ キ シコ人13人,残 りの
12人 はその他の ラテ ンアメ リカ諸 国か ら来た。当
初,ユ ネスコが財源 を提供 したが,の ちに政府,
研 究調査諸機 関,諸 大学,国 際機関,財 団な どの
協力 と助言 を得 なが ら,コ レヒオの予算のなかに
組み込 まれ るこ とになった。
1966年,同 研 究科 の紀要 と して 「東 洋学研 究
(Estudios Orientales)」 が創刊 された。同誌の編
集方針にも研究科の教育方針が反映された。すな
わ ち,紀 要 は,本 や他の雑誌 に掲載 された論文 の
翻訳 では な く,研 究科の メ ンバ ーに よって執筆 さ
れた論 文 を掲 載す る場 と して,ま た,材 とい う
のでは な く,ア カデ ミックな機 関の内部 で生 み出
された考察 を外部 にむか って普及 してい くための
場 と して構 想 されたのであ る。 ただ し,異 なる地
域言語で書かれた作品の原書か らの翻訳について
は奨励 された。か くして同誌で は,理 論,そ して
方法論 における創 意工 夫,そ して また,ス ペ イン
語圏 内の他 の学術 的空間 との連結 を促 進す る媒体
となるこ とがめ ざされたのであ る。 また,テ ーマ
とい う点 で も,同 誌 を読 む ことに よって,各 地域
にか んす る重要 な研究分野 で何 が起 こっているか
を一般読者が知 るこ とが で きる ように,工 夫がな
された5)。 特 に卒業 したばか りの者 に とって,同
誌は学界の動向 を知 るための地 図 として重 要な意
味 をもって きた し,今 日で もそ うあ りつづ けてい
る。
この紀 要のほかに,CEAAで はスペ イ ン語話者
のためのサ ンス クリッ ト語,日 本語,中 国語の文
法書,共 同研 究や常 設セ ミナーの成果,一 部の修
士論文 を刊行 して きた。
2. ア ジア,ア フ リ カ に か ん す る ラテ ン ア メ リ カ
独 自の言 説 を立 ち 上 げ る こ と
す ぐれ た 知性 を もつ一 群 の 人 び とが,大 胆
に も,メ キ シ コで,そ して ラ テ ンア メ リカ と
い う場 所 で,ア ジ ア と ア フ リ カ に つ い て理 解
す る こ とが で きる と夢 み た の で す6)。
この企てを実現するための具体的な中身と方法
につ い て計 画 が練 り始 め られ た と き,そ の 主 軸 と
な っ た考 え は,ア カ デ ミ ッ ク な空 間 と して 研 究 科
の 自律 性 を守 る とい う こ とで あ っ た。 い い か え る
と,ヨ ー ロ ッパ,あ るい は北 米 の 機 関 に付 属 す る
下部組織のような存在とならない,と いうことで
あ る。 教 員 と学 生 が い っ し ょに な って ア ジア とア
フ リ カ7)に か んす る 「ラテ ンア メ リカ独 自の 言 説 」
を立 ち上 が らせ,彫 琢 して い くよ うな 空 間 を拓 く
こ と。 そ して ラ テ ン ア メ リ カの視 座 に立 っ た未 来
の外 交 官 が そ れ ぞ れ の 地域 で働 け る よ うに,そ の
ため の 養 成 を行 う こ と。創 設 の 当 初 か ら,メ キ シ
コだ け で な く,ラ テ ン ア メ リ カ の セ ン タ ー と し て
構 想 され た とい うこ と も,重 要 な 点 で あ る 。
この プロ ジ ェ ク トの指 揮 を とった の は,G.デ ・
ラ ・ラマ(Graciela de la Lama)教 授 で あ っ た 。
コレヒオの国際関係研究コースを卒業 し,パ リで
イ ン ド哲 学 と仏 教 を学 ん だ彼 女 は,ア ジ ア 各 国 を
訪 問 し,主 要 な 文 化,学 術,出 版 機 関 を 訪 れ た 。
そ う して 研 究 科 の 教 員 と な りう る人 材 を探 し,専
門家 の 助 言 を受 け る と と も に,最 新 の 情 報 の 収 集
にあ た っ てい った 。 ま た,そ の 一 方 で,ヨ ー ロ ッ
パ,ア メリカ合衆国,そ して オ ー ス トラ リ ア にお
ける 「東洋学」の主要な研究教育機関を訪れ,そ
の行 政面,学 術 面 で の 組 織 化 に つ い て 調 べ て い っ
た 。
そ の結 果,2年 間 の修 士 課 程 が設 置 され る こ と
になった。授業内容は 「東洋」 と当時呼ばれてい
た領 域 全 般 を,歴 史 学 を 基 本 と しつ つ 取 り扱 う と
い う もの で あ っ た。 ア ラ ブ ・ナ シ ョナ リズ ム,イ
ン ドの カー ス ト制 度,日 本 文 学,禅,ア ジ ア の 歴
史 と地 理,そ し て地 域 言 語 を 一 つ(当 時 の選 択 言
語 は,中 国 語,ヒ ンデ ィ,日 本 語,そ して ア ラ ビ
ラテ ンア メリカか らアジア ・アフリカ地域 を考 える こと 75
ア語だった),と いうのが具体的な内容であった。
しか し,実 際 に 始 め て み る と,2年 間 で は 短 く,
課 程 は3年 に 延 び る こ と に な っ た 。
当 時 を知 る者 は,研 究 科 が バ ベ ル の 塔 の 観 を な
した と述懐 す る。
ア ラブ 世界 の歴 史 を教 え て い る先 生 が ドイ
ツ語 で話 す の を 聞 い た こ とが あ る し,イ ン ド
か らの先 生 は ヒ ンデ ィを話 して い た。 サ カ イ
先 生 は 日本 美 術 に つ い て話 して い た し,か と
思 うと,球 つの先生はアジアの人類学につい
て話 して い る とい った 具 合 で した8)。
1年 目 の科 目 も相 当 に 高 い水 準 の も ので あ っ た 。
前 期 の 科 目 と担 当者 を試 み にあ げ てみ よ う。()
内 は担 当教 員 名 。
・東 洋 の文 化 人 類 学(C .フ ォ ン ・フ ユー ラ ー ・ハ
イ メ ン ドル フ,ロ ン ド ン大 学)
・アジア地理学概論(L .シ ン博 士,ベ ナ レス大 学)
・一般 言 語 学(M .ス ワ デ シ ュ,メ キ シ コ国 立 自
治 大 学)
・中 国語 ,日 本 語,ヒ ンデ ィ,あ る い は アラ ビ ア語
カリキュラムの主軸は歴史であったが,ほ かに
こ れ を補 う軸 が2つ あ っ た 。 一 つ は,文 学,宗 教,
美 術 へ とむか う方 向 で あ り,い ま一 つ は経 済 ・社
会 分 析 で あ った 。 後 者 に は,た と え ば 近代 イ ン ド
の 形 成 にお け る植 民 地 主 義 の 影響,経 済 発 展,と
い った もの が 含 まれ た 。 一期 生 は すべ て の 科 目を
履 修 しなけ れ ば な らず,選 べ る の は 地 域 言 語 だ け
で あ った 。 そ の次 の代 か らは,共 通 科 目 と し て概
論 的 な セ ミナ ー が 一科 目設 定 され,残 りの科 目 は
地 域 ご とに分 化 して い く とい う方 式 に変 わ った9)。
研 究 科 は また,学 生 全 員 に 生 活 で き る だ け の奨
学 金 を支給 で きる よ う努 力 した。 その こ と もあ っ
て,入 学 に お け る 選 抜 は い う ま で も な く,学 期 ご
との チ ェ ッ ク も厳 しいも の で あ っ た。 科 目 を再 履
修 す る こ とは 許 され なか っ た。 とい うの も,先 行
す る代 の学 生 が2年 間 の 課 程 を 終 え た と き に,新
規 入学 者 の募 集 が 始 ま る とい う シ ス テム に な って
い た か らで あ る。 この た め,ゼ ミ の う ちの ど れか,
あるいは言語科目のどれかの成績が不良であった
場 合,そ の 学 生 は 自 動 的 に退 学 せ ざ る を えな い10)。
このシステムは今 日でも維持されている
コ レヒ オ の 図書 館 は,こ う し た教 育 と 研 究 の た
めの イ ンフラ ス トラ クチ ャー を提 供 し,ス ペ イ ン語
圏で もっ と も充 実 した アジ ア,ア フ リ カ関 連 文献 を
収 集 してい っ た。 また,の ち に は,こ れ に広 範 な デ
ー タ ・ベ ー ス を提 供 す る 「日本 情 報 資 料 セ ンタ ー
(Centro de Informacion y Documentacion sobre
Japon)」 が 加 わ っ た。
1968年 に は,研 究 科 は 専 門 諸 地 域― 中 国,イ ン
ド,日 本,中 東,北 ア フ リ カ― を カ バ ーす る 独立 し
た研 究 セ ン ター とな って 独 立 した。 そ して,1975
年 に は,「 東 洋 」 と い う ヨー ロ ッパ 中 心 の 概 念 を め
ぐる議 論 が ス タ ッ フ間 で な され たあ と,セ ン タ ー
は 「ア ジア ・北 ア フ リカ研 究 セ ン ター(CEAAN)」
と改 称 し,同 じ年 に 紀 要 の 名 前 も 「ア ジ ア ・ア フ
リカ研 究 」 と改 め られ た 。
1970年 代,メ キ シ コ に お け る 国 際 主 義 論 は
「新 国 際 経 済 秩 序 」 を争 点 と し て展 開 し て い た 。
そ の議 論 の 一 つ の 成 果 は,「 ア ジ ア ・北 ア フ リ カ
人 文 科 学 国 際 学 会 第30回 大 会(30 Congreso
Internacional de Ciencias Humanas de Asia y
Africa del Norte)」(1976)で あ っ た 。 そ れ は,
東 洋 学 者 た ち に とっ て ラ テ ンア メ リカ で 開催 され
た 初 の 大 会 で あ っ た 。A.ア ブ デ ル ・ マ レ ク
(Anouar Abdel Malek)を は じめ とす る論 者 た ち
は,「 東 洋 学 」 的主 題 に 特 徴 的 な 西 洋 的 還 元 主 義 を
放 棄 し,ア ジ ア,そ して 中東 で の変 動 過 程 に か ん
す る よ り今 日的 な主 題 に取 り組 むべ きだ と主 張 し
た 。 こ う した主 張 は,CEAANの 支 持 を 得 た 。 と
い うの も,70年 代 に 入 っ て,す で にセ ン タ ーで は
「現 代 アジ ア と ラテ ンア メ リカ」 とい う常 設 ゼ ミを
発 足 させ,「 東 洋 学 」 の 隔 離 主 義,還 元 主 義,そ し
て コ ミ ッ トメ ン トの 欠 落 とい った 限 界 を乗 り越 え
て い こ う とす る気 運 が生 まれ て い たか らで あ る 。
76 モ ニ カ ・セ ハ ス
3. 脱 「東 洋 学 」 化
あ な た が ラ テ ンア メ リカ とメ キ シ コ を理 解
した い と思 うの な ら,ア ジ ア,ア フ リ カ,そ
して ヨー ロ ッパ を理 解 しな け れ ば な らな い の
で す11)。
P.ム ケ ル ジ ー(Prodyot Mukherjee)が 教 授
職 を務 め て い た カ ル カ ッ タ大 学 を辞 してCEAAN
の 教授 とな っ たの は,1970年 の こ と で あ る 。 ム ケ
ル ジー は セ ン ター の研 究 部 門 コ ー デ ィネ ー ター で
もあった。着任後,教 授 はカリキュラムの改訂を
進 め,ア ジ ア,ラ テ ン ア メ リ カ,そ し ての ち に ア
フ リカ を も含 む,各 地 域 の 諸 問 題 に つ い て の 比 較
を可 能 とす る よ うな 方 法 論 的 視 点 を導 入 した。 そ
の た め に必 要 と され た の が,コ レ ヒ オの 他 の セ ン
ター との協 力 関 係 で あ った 。 コ レヒ オ内 部 にあ る
資 源 を有 効 に 用 い な が ら,CEAANの 学 際 的 性 格
を強 め て い くこ と,ラ テ ン ア メ リ カ と ア ジ ア を め
ぐる異 国趣 味 的 まな ざ し と決 別 す る こ と,そ の た
め に両 地 域 に共 通 す る諸 問 題 を見 い だ して い くこ
と―ここにムケルジーの主張があった。
こ の 「革 命 」 は,セ ン タ ー で 各 地 域 を 専 門 と す
る教 員 そ れぞ れ に よっ て推 進 され,そ う して ア ジ
ア,な ら び に 中東 の 脱 「東 洋 学 」 化,一 種 の 認識
論的切断が行われたのである。
ムケ ル ジー 自身,「 現 代 ア ジ ア と ラテ ン アメ リ カ」
と題 した 常 設 ゼ ミの 発 足 に む け て 奔 走 し た12)。 中
心 的 な主 題 と な っ た の は近 代 化 で あ り,社 会 運 動
との関係で分析される社会変動であり,政 治思想,
宗教思想,そ して社会経済的発展であった。なか
で も農 業 社 会 の 歴 史 と農 民 運 動 の 研 究 は,ゼ ミの
重 要 な柱 とな った 。 研 究 に あ た っ て は,一 次 資 料
を用 い る こ とが 奨 励 され たが,ア プ ロ ー チ と し て
は歴 史 学 だ け で な く,社 会 学,そ して 人類 学 の視
点 が 導 入 され た13)。 ゼ ミは セ ン タ ー の学 生 と卒 業
生 を中 心 に構 成 され たが,徐 々 に,コ レ ヒオの 他
の セ ン ター か ら もス タ ッフが 加 わ り,ラ テ ン ア メ
リ カの 経験 に か ん す る知 識 が 提 供 され る よ うに な
った 。P.ワ ー ズ リー(Peter Worsley),B.チ ャ
ン ドラ(Bipan Chandra)と い っ た,国 際 的 に 著
名 な知識人 もゼ ミに招 かれた。
4. アフリカ地域研究のための枠組みの構築
1982年 になって,ア フ リカ専攻が修士課程 のな
か に設け られ,そ れ に伴 ってセ ンターの名称 もア
ジア ・アフリカ研究 セ ンター(CEAA)と な った。
1980年 代 には,す で にラ テ ンアメ リカ各 地 でい
くつかの アフリカ研 究セ ンターが活動 を展 開 して
いた。バ イー ア連邦 大学ア フリカ東洋学研究 セ ン
ター,サ ンパブ ロ大学ア フリカ研究 セ ンター,リ
オ ・デ ・ジャネイロのカ ンデ ィ ド・メ ンデス大学
アフリカ ・アジア研 究センター(以 上,ブ ラジル),
あ るい はハ バ ナの ア フリカ ・中東研 究 セ ンター
(CEAMO)な ど。 しか しなが ら,研 究者 養成の
ための十分 な基盤 を備 えた機 関はまだ見 られなか
った。 この点 が,CEAAに おけるアフリカ地域研
究科 開設 の動機 であったの だが,そ れ は上述の機
関の場合 とはがな り異 なった事情 だったといえる。
ブ ラジルや キューバ の場 合,植 民地支 配の経験,
奴隷の強制労働 と移動,あ るいは冷戦時代の関係
といった共通の経験があった。この共通の歴史的
アイデンテ ィテ ィが,「かれ らを理解 し,か つわれ
われ 自身 を理解す るため」 とい う,研 究動機にお
ける深い必然性 を規定 していた14)。 たとえば,ブ
ラジルではアフリカ研 究は1970年 代 に開始 してい
る。 ブラジルは,ア フリカ諸国 とともにポル トガ
ルの植民地支配の経験を共有 しているのだが,70
年代には,「 ブラジルにおける黒人運動が台頭 し,
アフリカにおけるポル トガル植民地の独 立15)」 も
見 られ るとい う,大 きな契機があった。 またキュ
ーバのCEAMOは70年 代の末に発足 した。それは,
「キューバ文化におけるアフ リカ文化,な らびにア
ラブ文化の影響 と,1959年 以降,キ ューバが アフ
リカ諸国,そ してアラブ諸 国 と結 んで きた関係の
発展 と緊密 化16)」 に応 えてのこ とで あった。
これに対 して,CEAAで は,自 らの存在 その も
のに発 した理由 とい うよ りは,1960年 代 以降の ア
フリカにおける新興 国家の あいつ ぐ独立に よって
もた らされた根底 的な変動 こそが,新 しい専攻 と
してアフリカ地域研究科を創設するうえでの契機
ラテ ンアメリカか らアジア ・アフリカ地域 を考 えること 77
とな っ た 。 こ の こ と を反 映 して,研 究 科 の 中 心 的
主題 と して選 ば れ た の は 「ア フ リカ に お け る 国家
と社 会」 で あ っ た。 一 期 生 は総 勢15人 か らな り,
メキ シ コ 人3名,ブ ラ ジ ル 人4名,ア ル ゼ ンチ ン
人,コ ス タ リ カ 人 各1名,そ し て ド ミニ カ 人2名
とい うのが その 内 訳 で あ った 。
研 究 科 が 発 足 した翌 年,CEAAは ア メ リ カ 合 衆
国社 会 科 学研 究 審 議 会(Social Science Research
Council)の ア フ リカ研 究 合 同委 員 会 と共 催 で,オ
ア ク ス テペ ク(モ レ ー ロ ス州)で 国 際 会 議 「ア フ
リカにおける国家と社会」を開催 した。社会-国
家 の 関 係 を議 論 す る ため に,ラ テ ン ア メ リ カ,北
米,ア フ リ カ か ら の研 究 者 が こ こ に 集 ま っ た17)。
社 会-国 家 関 係 の 分 析 を 中 心 に 置 き,学 際 的 な
パ ース ペ クテ ィブ に立 った ア フ リカ研 究 を 目指 す
とい う方針 は,P. A.ニ ヨ ンゴ(Peter Anyang'
Nyong'o)ナ イ ロ ビ大 学 教授 の 考 え に よ る もの で
あ った 。 ニ ヨ ン ゴは,講 義 録 の 口 述 を 始 め る ま え
に,「 現 代 ア フ リ カ にお け る 政 治 的,経 済 的,社 会
的発 展 に か ん す る 主 要 な特 徴 」 と題 した 公 開 セ ミ
ナ ー を開 くこ と をCEAAに 提 案 した 。 ム ケ ル ジー
の場 合 と同様 に,ニ ヨ ン ゴ教 授 も ま た,ア フ リ カ
と ラテ ンア メ リカ に対 す る ま な ざ しを,両 者 を つ
な ぐ文 化 的 な絆 に よっ て乗 り越 え るべ きだ と主 張
した。「どちらの大陸においても人間が共通 して直
面 す る社 会経 済 的,そ し て生 態 学 的 諸 問 題 が あ る
の だ18)」 か ら,と 。 政 治体 制 論,政 治 変 動 に か ん
す る見 通 し,民 主 化,人 権― これ らは い ず れ も
1980年 代 の ラ テ ン ア メ リ カ 出 身学 生 に とって きわ
め て強 い関 心 を ひ く問 題 で あ った 。 と りわ け,当
時のラテンアメリカでは,各 地で民主化の過程が
進 行 し,独 裁 体 制 か ら の 転換 が 徐 々 に 起 こ っ て い
たか らで あ る 。
この学際的パースペクティブに立った現代アフ
リ カ研 究 とい う方 針 は,1985年 に 新 し い教 育 プ ロ
グラムが導入されるまでつづいた。この年以降,
ア フ リカ 地域 研 究 科 は,あ ら た に歴 史 学 を 主 軸 と
し,そ の ほ か に5学 期 間 に わ た る ス ワ ヒリ語 学 習,
な らび に,経 済 と社 会,文 化 と社 会,歴 史 と社 会,
文学 と社 会,専 門 演 習 と い っ たゼ ミを含 む カ リ キ
ュラムを組織することになった19)。
1990年 代 に 入 っ て も,研 究 科 は 同 じ方 針 を 維 持
して きた 。 そ して,「 ア ジ ア とア フ リ カ にお け る 今
日の で きご とが こ れ らの 地域 の 社 会 経 済 的,政 治
的,文 化 的 な 現 実 を ど の よ う に示 して い る のか を,
ラテ ンア メ リカの視 点 か ら検 討 す る20)」 と い う 目
的の もとで,91年 か ら95年 の 間 に3つ の 会議 を開
催 した。 会 議 に は研 究 者 だ け で な く,メ キ シ コ政
府の高官が加わった。聴衆には学生,ジ ャーナリ
ス ト,ア ナ リス ト,官 僚 な ど 多 数 が 集 ま り,一 部
の討 論 は テ レビで 放 映 され た 。
アフリカ地域研究の言語としてスワヒリ語が選ば
れたの は,そ れ が ア フ リカ 中央 部 と東 部 の リ ン ガ ・
フ ラ ンカ(共 通 語)で あ るか らだ が,こ の 言 語 を ス
ペ イ ン語 話 者 に 教 え る た め の 教 科 書 は,コ ン ゴ
(旧 ザ イ ー ル)出 身 のM.カ ンガ ボ(Massimango
Cangabo)教 授 と コ レヒ オの 言 語 学 ・文 学 研 究 セ
ン ター のTh.ス ミ ス(Thomas Smith)教 授 の 共
同 で 開発 され た 。 また,ス ワ ヒ リ 語 ・スペ イ ン語
辞 典 が 現 在 編 纂 され て い る とこ ろで あ る21)。 ス ペ
イ ン語 ・ス ワ ヒ リ語 辞 典 も また,ダ ル ・エ ス ・サ
ラー ム 大学 の協 力 に よっ て 出版 され る 予 定 とな っ
て い る22)。
同研 究 科 は また,さ ま ざ ま な 会議 開 催 や 大 学 間
協 定 の締 結 な どを通 じて,積 極 的 に南 々 関係 を広
げ よ う と して い る。 現 在 取 り組 まれ て い る の は,
モ ザ ン ビー クのE.モ ン ドラー ネ大 学 と ガ ー ナ大
学 との協 定 で あ る。 こ の うち,モ ン ドラ ー ネ 大 学
か らは社 会 学 部 創 設 の た め に,コ レ ヒ オ の社 会 学
研究センターとの協力要請があり,そ のための仲
介 役 を ア フ リカ 地 域 研 究 科 が 担 っ て い る。 また,
同研究科で初の博士号を取得 した卒業生が,ケ ー
プ タ ウ ン大 学 の ゼ ミを担 当 して い る。
現 在,教 授 陣 は 以 下 の4人 か ら構 成 され てい る。
C.ア グエ ロ(ア フ リ カ史,史 料 編 纂,サ ヘ ル の 農
民 組 織),M.カ ン ガボ(ス ワ ヒ リ 語,政 治 ・社 会
分 析),J. A.サ ベ ドラ(ス ワ ヒ リ語 ・ス ワ ヒ リ文
学,19世 紀 東 ア フ リ カ 史),H.バ レ ー ラ(国 際 関
係,現 代 政 治 史,南 部 ア フ リ カ専 門)。 こ の ほ か,
これ まで に26人 の客 員 教授 が 教鞭 を執 っ た。 す で
に 言 及 した ニ ヨ ンゴ の ほ か に,I.シ ブ ジ(Issa
Shivji)ダ ル ・エ ス ・サ ラ ー ム大 学,L.ジ ョン ソン
78 モ ニ カ ・セ ハ ス
(Lemuel Johnson)ミ シ ガ ン大 学,V. Y.ム デ ィ
ンベ(V. Y. Mudimbe)プ リ ンス トン大 学,P.ラ
ブ ジ ョイ(Paul Lovejoy)ヨ ー ク大 学,Cl.メ イ
ヤ ス ー(Claude Meillassoux)フ ラ ンス 国立 科 学
研 究 セ ン タ ー,A.エ ン ト ラ ル ゴ(Armando
Entralgo)CEAMOな ど。
また,こ れまでにアフリカ地域研究修士課程を
修 了 した学 生 は6期 に わ た り,人 数 に して46名 を
数 え る23)。
5. ラ テ ン ア メ リカの ア ジ ア ・ア フ リカ学 会
(ALADAA)
ラ テ ン ア メ リ カ の ア ジ ア ・ア フ リ カ 学 会
(Asociacion Latinoamericana de Estudios de
Asia y Africa,以 下,ALADAAと 略 称 す る)は,
1976年 に発 足 した 。 こ れ は 先 述 の,「 ア ジ ア ・北
ア フリ カ人 文 科 学 国 際 学 会 第30回 大 会」 が メキ シ
コで 開催 され た と きで あ る。 この学 会 は,ア ジ ア ・
ア フ リ カ学 に たず さ わ る ラ テ ンア メ リカ の研 究 者
が学術的交流を行い,教 員や研究者の養成のため
に高等教育研究諸機関が相互に協力 し,こ の分野
の研 究 や 情 報 を広 く普 及 させ て い くた め の 場 と し
て,CEAAが 推 進 して き た も の で あ る 。 ま た,ス
ペイン語話者にアフリカの,そ してアジアの諸言
語 を教 え て い くた め の方 法論 や 教 材 につ い て議 論
し,意 見 交換 を進 める場 で もあ る。 ア グエ ロ教授
に よれ ば,ALADAAは そ の 一 方 で,ア ジ ア,あ る
いは ア フ リカ にか んす る知 識 を もつ 各種 団 体24)と
の連 携 も重 視 して き た 。
ALADAAは 隔 年 で,ラ テ ンア メ リカの 大 学 の ど
こか で 国 際 大 会 を開 い てい る。 そ して そ こに ラテ
ンアメリカ中の専門家が集まってアジアとアフリ
カ にか んす る討論 を行 うの で あ る 。 ラ テ ン ア メ リ
カ以外 の 地 域 か らの研 究 者 も歓 迎 され る(英 語 で
の 報告 も可 で あ る)。 今 年 は,「 文 化,権 力,テ ク
ノロジー― グローバル化に直面するアジアとアフ
リカ」 の大 会 テ ー マ の も とに,第10回 大 会 が ブ ラ
ジ ル の カ ンデ ィ ド ・メ ンデ ス大 学(リ オ ・デ ・ジ
ャ ネ イ ロ,10月26日 ∼29日)で 開 か れ る こ とに
な って い る25)。 ま た,こ の大 会 の活 動 の 一 環 と し
て,ラ テンアメリカとアフリカの研究者が共同で
進めてい るプロジェク ト 「南大西洋― ラテ ンア メ
リカとア フリカのあいだの人間,思 想,モ ノ,技
術 の交流,そ の歴 史 と展望」 の会合 も開かれる。
さらには,「南―南学術交流」の会合も予定されて
いる。
6. 拡 大
さて,CEAAで は1994年 にアジア太平洋地域研
究科が設置 された。 この研 究科 は,東 南 アジア,
台湾,そ して韓 国における現代社会 の諸問題 に焦
点をあてている。これまでアジア研究は中国と日
本 を中心 とする ものであ ったが,70年 代 の半ば頃
から太平洋地域にかんするゼミが開かれるように
な り,80年 代 に なる とこれが常 設ゼ ミとな った。
そこでの関心事 は,た とえば北米 自由貿易協 定の
環太平洋諸国への影響といったものであった。
今 日,CEAAの 教育 プログラム は,サ ハ ラ以南
アフリカ,中 国,イ ン ド,日 本,中 東(西 アジア
と北ア フリカ),そ して東南 アジアの6つ の地域専
攻 を擁 してい る。 このほか に,韓 国にかんす る研
究科 も加 わっている。
1997年 か らは,研 究者 養成 の体 制 をよ り強固 な
もの とす るために,博 士課程 を設置 してい る。 ま
た,学 生が それぞれ専 門 とす る地域で滞在す るこ
とを奨励 している。3年 間の博士課程 を開設 した
こ とに伴 って,修 士課程 は2年 間 に短縮 され た。
現在の修士課程カリキュラムでは,セ ンターの学
生全員がそ ろって受講す る科 目は 「ア ジア ・ア フ
リカ学概論」 のみ となっていて,こ れは1年 次 の
第1学 期 に履修 す ることになっている。 第1学 期
には,こ のほか,そ れぞれの専 門 とす る地域の歴
史 と言語 を集 中的 に学 習す るこ とにな ってい る。
第2学 期 か らは,歴 史 と言語の授業以外 に,専 門
演習をとることになっている26)。学生たちはまた,
それ以外 に第2地 域言語 を履修 しなければな らな
い。博士課程のプログラムには,言 語の集中授業
が含 まれてい る。1年 目では,こ の集中授業 です
で に取得 した言語の知識 をさらに深める とともに,
第2地 域 言語 の能力 を高めるこ と,そ して専 門演
ラテンアメリカからアジア ・アフリカ地域を考えること 79
習 が課せ られてい る。2年 目では専 門 とす る地域
で フィール ド ・ワークを行 うこ と,あ るいは ヨー
ロ ッパ もし くはアメリカ合衆 国の専 門機 関での研
究滞在 が義務づ けられ ている。 そ して最後の3年
目では,博 士論文執筆のための演習に専念するこ
とと,セ ンターの活動 を補助す ることが要求 され,
博士論文 の提 出で修了 となる。
修士 課程 を修了 した者の多 くは,筆 者がそ うで
ある ように,海 外の機関で研究 をつづ けるか,あ
るいは出身国にもどってラテンアメリカあるいは
スペ イ ンの大学で働 き,次 世代の地域研 究 を担 っ
ていってい る。 なか には,出 身国の外 交官 となる
者 もいる。筆者個人のことについていえば,専 門
で あるア フリカ地域研 究 を日本でつづ ける,と い
うあ まり先例 の ない課題 に取 り組 んでいる。筆 者
の場 合には,ア ジア,ア フリカ,そ してラテ ンア
メリカ,そ れぞれの文化空間が交差するところに
身 を置い てい るわけだが,そ の こ とをつ うじて,
私 は,「 自分 自身(ラ テンアメリカ)の 目で見 よう」
とい う企 てが,固 定的な ものでは な く,CEAAを
卒業 した各世代 によって練 り上げ られてい く過程
なので はないか と考え るにいた って いる。私 たち
は,こ の過程 の新 しい段 階 に入 りつつ あるといえ
るのか もしれない。それは,異 なる文化空間が単
に加算 される とい うのでな く,そ れぞ れの文化的
アイデ ンテ ィテ ィを区別 す ることが困難 な,複 合
的,あ るいはハイブ リッ ドな段階 といえるだろ う。
日本 の文化 を習得 してい くこ とは たや す くない。
けれ ど も,そ の ような学 習をつ うじて,私 の アフ
リカを見 る目 も確実 に変 わって きている。最初 に
あ った ラテ ンアメ リカの まな ざしで もない し,か
とい って,ま った く新 しい もの ともいえない。た
だ,新 しい見方,と い うに留 まる しかない。そ し
てその ことをつ う じて,ま た,ラ テ ンアメ リカの
自己像 も再発 見 し,考 え直す機会 を与 え られてい
る。認識 の往復 運動 はい まや これ まで以上 に複雑
な もの となってつづ くのであ る。
註
1)こ の 小 論 を書 くにあ た って 以 下 の 文 献 を参 照 した 。
Alvarez, Mariela (ed.) Asia y Africa desde
Mexico. Treinta Anos del Centro de Estudios de Asia
y Africa, Mexico, El Colegio de Mexico, 1996.ア ル
バ レス の 編 に よる この 本 は,ア ジ ア ・ア フ リ カ研 究 セ
ン タ ー創 設 以 来 の30年 間 に わ た る活 動 を ま と め た 文
献 と して は 唯 一 の もの で あ る.ま た,同 セ ン タ ー の 一
期 生 で あ り,現 在 セ ン タ ー で 教 鞭 を執 られ て い るC.
ア グエ ロ教授 か らは,ご 自身 が ラテ ン ア メ リ カ ・カ リ
ブ地域社会科学学会でなされたセンター活動報告をお
送 りい た だ くな ど,重 要 な情 報提 供 を受 け た 。Celma
Aguero, "El Centro de Estudios de Asia y Africa de
El Colegio de Mexico. Presentation e Informe de
Actividades," ponencia presentada en "Grupo de
Estudio Intercambios Academicos Sur-Sur. Primer
Congreso Latinoamericano y Caribeno de Ciencias
Sociales, Recife (Brasil), 22-26 de Noviembre de
1999.同 じ く一 期 生 で あ り,セ ン ター 長 の 経 験 もあ
るF.ポ トン(Flora Botton)教 授 か ら も 多 く の 貴 重
なお 話 を うか が う こ とが で きた。 こ の ほ か,H.バ レ
ー ラ(Hilda Varela)教 授 か らは ,特 に ア フ リカ 地域
研究の部分に関して懇切なご教示をいただいた.こ れ
らの方 々 の ご協 力 な く して は小 論 を ま とめ る こ とは で
きな か っ た。 心 か ら感 謝 の こ とば を述 べ た い。
2)M.オ ヘ ー ダ(Mario Ojeda)メ キ シ コ 大 学 院 大 学
学 長 が イ ン タ ビ ュ ー で 述 べ た こ と ば 。Alvarez, M.
(ed.), op. cit., p.10.
3)メ キ シ コ 大 学 院 大 学(El Colegio de Mexico)は
1940年 に メ キ シ コ ・シ テ ィに 高 等 教 育 研 究 機 関 と し
て発 足 した。 現 在,同 大 学 院 大 学 に は以 下 の7つ の 研
究センターが設置されている。言語学 ・文学研究セン
ター(CELL),歴 史 学 研 究 セ ン タ ー(CEH),国 際 学
研 究 セ ン タ ー(CEI),ア ジア ・ア フ リ カ研 究 セ ン ター
(CEAA),経 済 学 研 究 セ ン タ ー(CEE),人 口 学 ・都 市
開発 研 究 セ ン ター(CEDDU),そ して 社 会 学 研 究 セ
ン タ ー(CES)。http://www.colmex.mx/default.htm
参照。
4)専 門 とす るそ れ ぞ れ の 地 域 に学 生 を送 り,フ ィー ル
ドワ ー ク に あ た らせ る とい う可 能 性 も検 討 され たが,
これは実際には財源の問題から実現困難であった。唯
一 これ を実 施 で きた の は 日本研 究 科 で あ る。 同研 究 科
で歴史を担当する田中道子教授の運営手腕,そ して国
際 交流 財 団,そ の他 の 日本 の諸 機 関 に よ る援 助 が あ っ
て,学 生 た ちは定 期 的 に 日本 での ス タ デ ィ ・ツ ア ー を
実施 す る こ とが で きた。
5) Aguero, C., op. cit., p.2.
80 モ ニ カ ・セハ ス
6) Alvarez, M. (ed.) op. cit., p.22.
7)こ の 当 時 には,中 東研 究 の 一 部 と して,北 ア フ リカ
だけが含まれていた。
8) Ibid., p.30.東 洋 学 研 究 科 の 一 期 生 で,ア ルゼ ンチ ン
か ら来 たC.ア グエ ロ(現 在,ア フ リ カ地 域 研 究 科 教
授)の 証 言 。
9)当 時,中 国 地 域 専 攻 だ っ たF.ボ トン教 授 との ヒア
リ ン グか ら(1999年11月)。
10)合 格 す るの に 必 要 な 点 数 は10点 中の8点 で あ る。例
年,入 学者の半数程度しか課程を修了することができ
ない 。
11)コ レ ヒオ に お い て い くつ もゼ ミを開 い たム ケ ル ジー
が,当 時 自分 の ゼ ミ生 だ っ たL.マ イヤ ー(Lorenzo
Meyer)に 語 っ た こ とば。 マ イヤ ー は 現 在,コ レ ヒオ
の 教 授 で あ る 。Alvarez, M. op. cit., p.47.
12)こ の ゼ ミ の 成 果 は,1974年 に,Movimientos
agrarios y cambio social(『 農 民 運 動 と社 会 変 動 』)
とい う本 とな っ て 出版 され た 。
13) Alvarez, M., op. cit., p.49.
14)メ キ シ コ で も,1990年 代 に 入 る と類 似 の 問 題 意 識 と
と して,「 第3の 根(tercera raiz)」 をめ ぐる議 論 が
繰 り広 げ られ た。 従 来,メ キ シ コ人 は,先 住 民 族 とス
ペ イ ン人 の 混淆 に よ っ て成 立 した と考 え られ て きた の
だが,そ こに第3の 要素 としてのアフリカ人の要素が
注目されるようになったのである。この問題をめぐり,
お もに メ キ シ コ 国立 自治 大 学 が 中心 とな っ て,分 野 的
に は歴 史 を 中心 と した考 察 が な され た 。
15)カ ンデ ィ ド ・メ ン デ ス大 学 ア フ リカ ・ア ジ ア研 究 セ
ン ター の 紹 介 パ ン フ レ ッ ト(Rio de Janeiro, 1999,
p.1)か ら。
16)CEAMOの 紹 介 パ ン フ レ ッ ト(1999)か ら 。
17)こ の会議の成果として公刊されたのが次の文献であ
る。Nyong'o, Estado y sociedad en el Africa actual,
El Colegio de Mexico, 1989. Cf. Alvarez, M. (ed.),
op. cit., pp.74-76.
18) Alvarez, M. (ed.), op. cit., p.77.
19)こ の 点 に つ い て は,C.ア グエ ロ教 授 か ら直 接 に ご
教 示 い た だ い た(2000年3月1日)。
20)CEAAの 活 動 記 録 に よ る。Alvarez, M. (ed.) op. cit.,
p.74.
21) Aguero, C., op. cit., p.3.
22) Ibid., p.8.
23)こ の う ち,今 日 まで に博 士 号 を取 得 した 者 は6名 で,
そ れ ぞ れ イ ギ リス,メ キ シ コ,ア メ リカ合 衆 国,ブ ラ
ジ ル,南 ア フ リカ共 和 国 で取 得 して い る。 また,現 在
9名 が 博 士 課 程 に 在 籍 中 で あ る 。Cf. Aguero, C.,
op. cit., p.5.
24) Agiiero, C., op. cit., p.3.た と え ば,「 ラ テ ン ア メ リ カ
カにおけるアフリカ系,ア ジア系移民の運動」(メ キ
シコ),「 ラテンアメリカとアフリカの架け橋プロジェ
ク ト」(コ ロ ン ビ ア),「 わ れ らの 第3の 根 」(メ キ シ コ),
「黒 人運 動 」(ブ ラ ジ ル),「 ア フ リ カ系 コロ ン ビア 人研
究 」(コ ロ ン ビ ア),ア フ リカ 系 ブ ラ ジ ル人(ブ ラ ジ ル),
ア フ リ カ系 メ キ シ コ人(メ キ シ コ),ア フ リ カ系 ア ル
ゼ ンチ ン人(ア ル ゼ ン チ ン)な ど。
25)よ りくわ しい情 報 は,下 記 の ホー ムペ ー ジで得 られ る。
http://www.colmex.mx/centros/ceaa/aladaa/default.
htmま た,連 絡先 と してe-mail:aladaa@colmex.mx
(事務総長 田中道子博士)。
26)CEAAの 紹 介パ ンフ レ ッ トか ら(1999,p.18)。